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幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、[[1926年5月28日クーデター]]により、[[マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ]]将軍、[[ジョゼ・メンデス・カベサダス]]将軍を首班とする[[軍事政権]]が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権の[[オスカル・カルモナ]]大統領の下で財務相[[アントニオ・サラザール]]が混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、[[世界恐慌]]をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌[[1933年]]にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。[[エスタド・ノヴォ]](新国家)体制が確立された。
 
対外的には[[ナチス・ドイツ]]や[[ファシスト党|ファシスト・イタリア]]に近づき、[[スペイン内戦]]では[[フランシスコ・フランコ]]を支持したサラザールだったが、対内的には[[ファシズム]]よりも[[コーポラティズム]]を重視し、[[第二次世界大戦]]も親[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。
 
第二次世界大戦後、[[反共]]政策を維持したサラザールはポルトガルの[[北大西洋条約機構]]や[[国際連合]]への加盟に成功し、こうした[[西側諸国]]との友好政策もあって1950年代には国内の重工業化が進んだ。一方、サラザールの独裁体制対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派の[[ウンベルト・デルガード]]将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年の[[エンリケ・ガルヴァン]]退役大尉が指導する[[イベリア解放革命運動]]による[[サンタマリア号乗っ取り事件]]が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。