「ウルバヌス2世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''ウルバヌス2世'''(Urbanus  II, [[1042年]] - [[1099年]][[7月29日]])は[[11世紀]]の[[教皇|ローマ教皇]](在位[[1088年]] - 1099年)。本名'''ラゲリウスのオド'''(Otho, Odo de Lagery)または'''シャティヨンのユード''' (Eudes(Eudes de Châtillon)Châtillon)。[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]によって引き立てられ、その遺志をついで教会改革を達成した。[[1095年]]の[[クレルモン教会会議]]において、[[第1回十字軍]]派遣の呼びかけた人物としても知られる。
 
== 生涯 ==
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グレゴリウス7世のもとで推進された教会の自己改革([[グレゴリウス改革]])においては教皇の右腕として活躍し、特に教皇代理としてのドイツでの外交政策において卓抜した手腕を示した。グレゴリウス7世自身も後継者としてオドを考えていたようであるが、[[ウィクトル3世_(ローマ教皇)|ウィクトル3世]]を名乗ることになる[[モンテ・カッシーノ]]の院長デジデリウスが教皇職を継いだ。オドが晴れて教皇に選出されたのは、ウィクトル3世の死後であった。
 
ウルバヌス2世を称した新教皇はグレゴリウス7世の推し進めた教会改革の路線を忠実に踏襲することを表明し、優れた外交手腕によって実際に多くの改革を達成した。ウルバヌス2世は、自己の改革を進めるために師のブルーノをローマに招聘した。就任当初こそ[[ローマ]]における[[対立教皇]][[クレメンス3世_(対立教皇)|クレメンス3世]]の存在に悩まされていたが、一連の教会会議で多くの司教の賛同を集め、[[アマルフィ]]、[[ベネヴェント]]、[[トロワ]]といった諸都市が教皇の改革路線の成果を支持したことで対立教皇の存在を圧倒した。ウルバヌス2世は、[[聖職売買]]の禁止、司祭の独身制の徹底、俗権からの叙任権の奪回([[叙任権闘争]])を教会改革の柱として強力に推進、実際に教会の綱紀粛正という目に見える成果を上げていた。また、グレゴリウス7世以来続いていた[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]との抗争も継続した。ハインリヒ4世に対抗するため、[[トスカーナ州|トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルダ]]とバイエルン公ヴェルフ5世の結婚をとりもち、ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男コンラートのハインリヒ4世への反乱を支援した。また、離婚問題からフランス王[[フィリップ1世_(フランス王)|フィリップ1世]]を破門している
 
また、グレゴリウス7世以来続いていた[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]との抗争も継続した。ハインリヒ4世に対抗するため、[[トスカーナ州|トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルダ]]と[[バイエルン大公|バイエルン公]]子[[ヴェルフ2世 (バイエルン公)|ヴェルフ5世]]の結婚をとりもち、ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男[[コンラート (イタリア王)|コンラート]]のハインリヒ4世への反乱を支援した。また、離婚問題から[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ1世_(フランス王)|フィリップ1世]]を[[破門]]している。
ウルバヌス2世の以上のような改革達成における業績はあまり知られていないが、[[1095年]]11月に[[クレルモン=フェラン|クレルモン]]で行われた[[クレルモン教会会議]]の最終日に呼びかけた[[第1回十字軍]]の派遣を訴える演説は非常によく知られている。1071年の[[マラズギルトの戦い]]以降[[セルジューク朝]]に圧倒されつつあった[[東ローマ帝国]]皇帝[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシウス1世]]からの援助要請を奇貨として、1095年の[[ピアチェンツァ]]教会会議で援軍の派遣を提案したのであるが、結果として十字軍による東地中海域の侵略・破壊・虐殺に道を開いた。<!--キリスト教は20世紀に社会主義が登場するまでは人類史上最悪の虐殺者であったが、十字軍の惨禍はアメリカ大陸原住民の虐殺と並んで最大の罪過である。-->[[クレルモン教会会議]]において、彼はフランス人たちに対して[[聖地]]をトルコ人の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に神のために武器をとるようにと呼びかけると人々は “Dieu le veult!”(神の御心のままに!)と答えたという。彼は、教会改革の支持者であり十字軍を呼び掛ける演説に対しても熱狂的に応えたル・ピュイ司教[[アデマール・ド・モンテイユ|アデマール]]を、十字軍を指揮する教皇使節に任命した。
 
ウルバヌス2世の以上のような改革達成における業績はあまり知られていないが、[[1095年]]11月に[[クレルモン=フェラン|クレルモン]]で行われた[[クレルモン教会会議]]の最終日に呼びかけた[[第1回十字軍]]の派遣を訴える演説は非常によく知られている。[[1071年]]の[[マラズギルトの戦い]]以降[[セルジューク朝]]に圧倒されつつあった[[東ローマ帝国]]皇帝[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシウス1世]]からの援助要請を奇貨として、1095年の[[ピアチェンツァ]]教会会議で援軍の派遣を提案したのであるが、結果として十字軍による東地中海域の侵略・破壊・虐殺に道を開いた。<!--キリスト教は20世紀に社会主義が登場するまでは人類史上最悪の虐殺者であったが、十字軍の惨禍はアメリカ大陸原住民の虐殺と並んで最大の罪過である。-->[[クレルモン教会会議]]において、彼はフランス人たちに対して[[聖地]]をトルコ人の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に神のために武器をとるようにと呼びかけると人々は “Dieu le veult!”(神の御心のままに!)と答えたという。彼は、教会改革の支持者であり十字軍を呼び掛ける演説に対しても熱狂的に応えたル・ピュイ司教[[アデマール・ド・モンテイユ|アデマール]]を、十字軍を指揮する教皇使節に任命した。
 
ウルバヌス2世は、十字軍による[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム占領]]の14日後にこの世を去ったが、この知らせを聞くことはなかった。
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