「アップランドサウス」の版間の差分

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== 地理 ==
アップランド・サウスとアッパー・サウスの2つの言葉の使い方には微妙な違いがある。アップランド・サウスは通常地形を元に定義され、概して[[アパラチア山脈]]すなわち[[アパラチア]]の南部を言う(アパラチア地方委員会によって定義される全体ではないが、[[オザーク高原]]と[[ウォシ山地]]、およびカンバーランド台地、アレゲニー台地、ナッシュビル盆地およびブルーグラス盆地などのアパラチア山脈とオザーク高原の間の台地、丘陵地および盆地が含まれる)。[[ピードモント台地|ピードモント]]地域南部はしばしばアップランド・サウスの一部と考えられるが、[[大西洋]]岸平原([[バージニア州]]の海岸地域および[[サウスカロライナ・ローカントリー|カロライナのローカントリー]])は概して含まれない<ref>アップランド・サウスの始まりおよび進歩はMeinig(マイニグ)の文献で検討されている (1986), pp. 158, 386, 449</ref>。
 
対照的にアッパー・サウスは[[アメリカ合衆国]]の州で政治的に定義される傾向がある。この言葉は[[19世紀]]初期に遡り、アメリカ合衆国南部の北寄りの地域とはその違いが顕著になったローワー・サウスという言葉とともに使われ始めた。アンテベラム([[南北戦争]]の前)の時代、アッパー・サウスという言葉は概してローワー・サウスの北にある奴隷州の部分を指して使われた<ref>Meinig (1993), pg. 293.</ref>。南北戦争の間では、アッパー・サウスは、[[サムター要塞の戦い]]があるまでアメリカ合衆国から脱退しなかった州、具体的には[[バージニア州]]、[[ノースカロライナ州]]、[[テネシー州]]および[[アーカンソー州]]という遅れて[[アメリカ連合国]]に加盟した州を指して使われることが多かった。この定義は今日でも普通に使われているが、アッパー・サウスにおける境界州、すなわち[[ケンタッキー州]]、[[ミズーリ州]]、[[ウエストバージニア州]]、[[メリーランド州]]および[[デラウェア州]]は含んでいない<ref>南北戦争に基づくアッパー・サウスとディープ・サウスの定義の例については、[http://www.bartleby.com/59/16/deepsouth.html Deep South], The New Dictionary of Cultural Literacy, Third Editionを参照。</ref>。今日でもなお、多くの定義が南北戦争時代の政治に基づいているが、それにも拘わらずアッパー・サウスという言葉はしばしばディープ・サウスより北にある南部地方の全てを指して使われている。
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アップランド・サウスは18世紀終盤から19世紀初めにかけて特徴ある地域として表に出てきた。植民地の海岸部から内陸への移住と入植の様相は何十年にもわたって造り上げられてきたが、18世紀の終わりになってその規模が劇的に拡大した。一般的な様相はバージニア州、ノースカロライナ州およびメリーランド州の低地やピードモント地域から西方への移住であり、またペンシルベニア州からの南西方面への移住であった。[[ヨーロッパ]]からの大量の移民が[[フィラデルフィア]]に到着し、大馬車道([[:en:Great Wagon Road]])を西と南へ向けて入り、大アパラチア渓谷を通過して、アパラチア高原に入った。これらバージニア州とペンシルベニア州からの移民の流れによって、1750年には既に[[シェナンドー渓谷]]が十分に開拓されている状態になった。
 
これら移民の流れはアパラチア山脈を通過して拡がり、アパラチア台地地域を通って西方にオザーク高原やウォシ山地に入り、最終的に[[テキサス・ヒル・カントリー|テキサス丘陵地帯]]への入植にまで導かれた<ref>Meinig (1998), pg. 224</ref>。これら初期の開拓者の主な民族は、[[イギリス人]]、[[スコットランド人]]、[[スコットランド系アイルランド人]]および[[ドイツ人]]であった<ref>Drake (2001), pp. 36-38, ドレイクの文献では、初期の民族集団に言及しており、「スコットランド系アイルランド人」という言葉は、多数が長老派教会員の北部アイルランド人だったが、ある程度の数のカトリック教徒南部アイルランド人も含んでいたとしている。また「イギリス人」という言葉はフランス系ユグノー(例えば[[ジョン・セビア]]家)の先祖を含む包括的な言葉である。植民地時代のカトリック教徒アイルランド人移民については、Williams (2002), pp. 43-44を参照。</ref>。アップランド・サウスの初期文化は他のヨーロッパ系民族にも影響を受けた。例えば、[[ニュースウェーデン]]の[[スウェーデン人]]や[[フィンランド人]]であり、比較的少数ではあったが、ドイツ人やスコットランド系アイルランド人が到着するまえにペンシルベニア州を開拓しており、[[ログハウス|丸太小屋]]や丸太を割って作ったジグザグのフェンスのような森林で生活する技術、および樹木の環状剥皮や[[焼畑農業|焼き畑]]を使って森林を一時的な農作地や牧草地に変える移動耕作の方法を伝えた<ref>Williams (2002), pg. 104</ref>。
 
アパラチア山脈の麓の丘陵で始まった入植の様相は、西部の山岳地や高原、さらに[[ミシシッピ川]]を越えてオザーク高原地域でも受け継がれて拡がった。そこでは[[アメリカ州の先住民族|先住民族]]の攻撃という危険性があったので、人々は初め、集合した基地「ステーション」に入植したが、危険性が減少すると田舎に分散し親類縁者で固まるという傾向になり、比較的町や都市は少なかった。アップランド・サウスの初期開拓者は小規模の農作、家畜の飼育および狩猟を行う傾向があった。アップランド・サウスのこの入植形態はディープ・サウスや[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]とは明らかに異なっていた。