削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
8行目:
|写真のコメント = カージナルス時代のドリュー
|国籍 = {{USA}}
|出身地 = {{Flagicon|USA}} [[ジョージア州]][[バルドスタ (ジョージア州)|バルドスタ]]
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1975|11|20}}
|没年月日 =
33行目:
|選出方法 =
}}
'''J.D.ドリュー'''('''David(David Jonathan Drew''' , [[1975年]][[11月20日]] - )は、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]、[[ボストン・レッドソックス]]所属の[[外野手]]。[[アメリカ合衆国]][[ジョージア州]][[バルドスタ (ジョージア州)|バルドスタ]]出身。右投左打。弟の[[ティム・ドリュー]]、[[スティーブン・ドリュー]]も同じくメジャーリーガー。代理人は[[スコット・ボラス]]。
 
== 経歴 ==
{{by|1994年}}、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]からドラフト20巡目で指名されるが契約せず[[フロリダ州立大学]]に進学。{{by|1997年}}に[[ゴールデンスパイク賞]]を受賞し、大学野球史上初のシーズン30本塁打・30盗塁を記録するなど活躍<ref name="library">{{cite web |url=http://www.baseballlibrary.com/ballplayers/player.php?name=JD_Drew_1975|title=The Ballplayers - JD Drew|language=英語||work=BaseballLibrary.com|accessdate=8月2日|accessyear=2008年}}</ref>。
 
{{by|1997年}}、弟のティムが[[クリーブランド・インディアンス]]からドラフト1巡目で指名されており、ドリューも[[フィラデルフィア・フィリーズ]]からドラフト1巡目(全体2番目)で指名されたことにより史上初の同一年ドラフト1巡目指名の兄弟となったが<ref name="library"/>、球団側は契約金200万ドルを含む4年総額600万ドルに対し<ref name="maj199910">「30球団マンスリー・リポート セントルイス・カージナルス/入団を拒否した因縁の地へ初遠征 球場の憎悪を一身に浴びたドリュー」『[[月刊メジャー・リーグ]]』1999年10月号、[[ベースボールマガジン]]社、1999年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-10、82。</ref>、代理人の[[スコット・ボラス]]が総額1,100万ドルの契約金を要求し決裂したと言われている<ref name="library"/><ref name="maj199809"/>。その後、[[独立リーグ]][[ノーザンリーグ]]の[[セントポール・セインツ]]でプレーすることになった。44試合に出場し、[[打率]].318・18[[本塁打]]・50[[打点]]を記録し、リーグの最優秀新人賞を受賞<ref name="library"/>。
 
翌{{by|1998年}}に[[セントルイス・カージナルス]]からドラフト1巡目(全体5番目)で指名され総額850万ドルの4年契約を結び、契約金はドラフト指名選手として史上最高となる300万ドル<ref name="maj199809">「30球団マンスリー・リポート セントルイス・カージナルス 噂の新人と4年総額850万ドルで契約ドリュー外野手が投げかける波紋」『[[月刊メジャー・リーグ]]』1998年9月号、[[ベースボールマガジン]]社、1998年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-9、80。</ref>。球団関係者は、[[ロースター (MLB)|ロースター]]の枠が40人に拡大される9月にメジャー昇格を果たす確率が高いと見ており<ref name="maj199809"/>、AA級とAAA級で45試合出場し、[[9月8日]]の[[マーク・マグワイア]]がシーズン62本塁打を放ち、シーズン最多本塁打記録した試合でメジャーデビューをしている<ref name="library"/>。
 
メジャー昇格後初の[[ベテランズ・スタジアム]]でのフィリーズ戦となった{{by|1999年}}[[8月10日]]、球場全体から憎悪の視線がドリューへ向けられた<ref name="maj199910"/>。8回にドリューが守備に就いた時にはフィリーズファンが乾電池を投げ込み、試合が10分間中断となり、球審は「これ以上騒ぎが大きくなれば没収試合にするぞ」と警告を促した<ref name="maj199910"/>。
46行目:
{{by|2003年}}オフに[[アトランタ・ブレーブス]]にトレードされ、{{by|2004年}}は自己最高の31本塁打・93打点を記録し、[[6月30日]]から[[7月26日]]にかけて[[ジェフ・ケント]]の25試合連続安打に次ぐこの年リーグ2番目の長さとなる22試合連続安打を記録し<ref>{{cite web |url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m0FCI/is_6_67/ai_n27888583|title=Players with 20-game hitting streaks, one season |language=英語||work=BNET Today |accessdate=8月28日|accessyear=2008年}}</ref>、MVPの投票では6位に入っている。シーズン後の12月にブレーブスの3年総額2500万ドルを上回る金額を提示した[[ロサンゼルス・ドジャース]]と5年5,500万ドルの契約を結んだ<ref>{{cite web |url=http://sports.espn.go.com/mlb/news/story?id=1951346|title=Dodgers move quickly after killing Unit deal|language=英語||work=ESPN.com|accessdate=8月28日|accessyear=2008年}}</ref>。
 
{{by|2006年}}オフにドジャースとの間に残っていた3年3,300万ドルの契約を自ら放棄し退団。[[ボストン・レッドソックス]]と5年7,000万ドルの契約で合意。故障が多いため契約に「肩の古傷の再発で35日以上の故障者リストに入ったり、新たな故障でプレーできなくなったりした場合は、最後の2年間の契約を破棄できる」という条項がある<ref>{{Cite book|和書|author=友成那智、村上雅則|year=2008|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008|publisher=廣済堂出版|pages=49|id=ISBN 978-4-331-51300-2}}</ref>。また、契約合意直後の身体検査で右肩に異常が見つかったため、正式な契約締結は遅れた<ref>『月刊[[スラッガー]]』2007年3月号、44ページ</ref>。
 
{{by|2008年}}6月に初の[[プレイヤー・オブ・ザ・マンス|月間MVP]]を受賞し、[[デビッド・オルティーズ]]の離脱の影響を最小限に食い止めた<ref>「2008年後半戦チーム総点検 ボストンレッドソックス 投打の主力が故障離脱も分厚い選手層でカバー」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2008年9月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2008年、雑誌15509-9、37</ref>。初選出となった[[2008年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]では7回に同点2ランを放つなど4打数2安打2打点の活躍を見せMVPに輝いた。
 
== 獲得タイトル・表彰・記録 ==