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|国籍 = {{USA}}
|出身地 = [[Image:Flag of the United States.svg|20px|アメリカ合衆国]] {{USA}}[[アリゾナ州]][[メサ (アリゾナ州)|メサ]]
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1981|12|18}}
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'''ジェレミー・アッカード'''('''Jeremy Lee Accardo''', [[1981年]][[12月18日]] - )は、[[メジャーリーグベースボール]]の右投右打の[[投手]]。[[アメリカ合衆国]]の[[アリゾナ州]]出身。[[2011年]][[3月23日]]現在、[[ボルチモア・オリオールズ|ボルティモア・オリオールズ]]に所属している
 
== 歴 ==
イリノイ州立大学出身。[[2003年]]8月にドラフト外で[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]に入団し、[[2004年]]は[[マイナーリーグ]]で57試合に登板して経験を積んだ。
{{by|2003年}}、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]に入団。{{by|2005年}}にメジャーデビューし、28試合に登板。翌{{by|2006年}}はジャイアンツで38試合に投げた後、[[7月21日]]にトレードで[[トロント・ブルージェイズ]]に加入した。ブルージェイズでも27試合に登板して投手陣を引っ張った。将来のクローザー候補と目されていたが、{{by|2007年}}、本来のクローザー[[B.J.ライアン]]の故障により早くもその役割が回ってきた。ジャイアンツ時代の[[デイブ・リゲッティ]]ピッチングコーチから教わった[[スプリットフィンガード・ファストボール|スプリッター]]を完全習得し、飛躍の1年となった。
 
翌[[2005年]][[5月4日]]の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]戦でメジャーデビューを果たす。この年はマイナーでも35試合に登板するなど、まだ一軍半という位置付けだったが、メジャーでも28試合に登板した。
制球力が今一つで、ゴロを打たせるピッチングに徹するタイプのピッチャーながら、2006年はホームランを7本も打たれている。また、右投手ながら2006年の右打者に対する被打率は.307。このように課題も多く残っている。
 
[[2006年]]は、抑えの[[アーマンド・ベニテス]]が足の怪我で離脱した際に代理のクローザーを任されもしたが、ジャイアンツでは38試合に登板して防御率4.91と今一つ。シーズン中の[[7月21日]]にトレードで[[トロント・ブルージェイズ]]に移籍するも、移籍後初登板となった[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦でいきなり2点を失ったのを手始めに、その後も3試合に1回くらいの割合で得点を献上してしまい、ブルージェイズでは27試合で防御率5.97と更に数字を落としてしまった。
{{by|2008年}}以降は精彩を欠き、{{by|2010年}}はシーズンの大半を3A[[ラスベガス・フィフティワンズ|ラスベガス]]で過ごした。シーズン終了後、[[年俸調停]]を申請されずノンテンダーFAとなった。
 
続く[[2007年]]は、前年同様、守護神の[[B.J.ライアン]]が開幕後間もなくに怪我で離脱。開幕から13試合連続無失点の好投を続けていたアッカードは、[[5月12日]]の[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]戦で初セーブを挙げると、以後クローザーに定着した。6月上旬まで防御率1点台を維持し、一度も防御率が3点台以上になることなくシーズンを乗り切った。結果、[[アメリカンリーグ]]8位となる30セーブを稼ぎ、[[WHIP]]も1.11という高水準をマーク。ジャイアンツ時代の[[デイブ・リゲッティ]]ピッチングコーチから教わった[[スプリットフィンガード・ファストボール|スプリッター]]を完全習得し、ゴロを打たせてアウトを稼ぐ投球術を身に付けたことが大きな飛躍の一因となった。
 
前年の怪我の影響でライアンの復帰が開幕に間に合わなかったため、アッカードは[[2008年]]も引き続きクローザーとして開幕を迎えた。しかし、シーズン最初の3登板で3セーブを稼ぎはしたものの、その後の5試合中4試合で失点し、[[4月13日]]のライアンの復帰とともに守護神の座を明け渡すことになった。更に5月に右前腕を故障し、戦列を離れることになった。復帰の目途が立った7月には痛みが再発するなど苦しみ、結局16試合に登板しただけで[[故障者リスト|DL]]入りしたままシーズンを終えてしまった。
 
復活を期した[[2009年]]は、開幕ロースター入りを果たせず、マイナーで開幕を迎えた。メジャー復帰を果たしたのは[[6月18日]]の[[フィラデルフィア・フィリーズ]]戦で、この試合ではセーブをマークした。その後は8月に一時マイナーに戻りもしたが、シーズンでは26試合に登板した。しかし防御率こそ2.55だったものの、右打者に対して被打率.386
と打ち込まれ、WHIPは1.62に終わるなど、完全復活とは言えない内容だった。この年は腕にかかる負担を軽減するため、[[カット・ファスト・ボール]]を多投していた<ref>村上雅則監修 友成那智編著 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、90頁。</ref>。
 
オフに結婚し<ref>村上雅則監修 友成那智編著 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、90頁。</ref>、心機一転して迎えた[[2010年]]は、開幕から3試合連続で失点を喫するなど精彩を欠き、[[4月26日]]の登板を最後にマイナーに降格。その後マイナーでは41試合で24セーブをマークするなど、ある程度の結果は残したが、メジャーに呼ばれることはなく、わずか5試合登板でシーズンを終えてしまった。マイナーで成績を残し、かつ実績があるアッカードがメジャーに呼ばれなかったことについては、ブルージェイズの[[アレックス・アンソポロス]][[ゼネラルマネージャー|GM]]や[[シト・ガストン]]監督(当時)と不仲であるから、チームのオーナー企業の副会長令嬢と婚約したものの挙式直前に別れてしまったから、などの理由が噂された<ref>村上雅則監修 友成那智編著 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2011』 廣済堂出版、2011年、102頁。</ref>。
 
シーズン終了後にフリーエージェントとなり、[[12月17日]]に[[ボルチモア・オリオールズ|ボルティモア・オリオールズ]]と契約した。
 
== 年度別投手成績 ==
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[メジャーリーグ選手一覧 A#Ac|メジャーリーグ選手一覧]]
 
== 外部リンク ==