「ディック・ウィルソン (オグララ族)」の版間の差分

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1972年4月10日、オグララ族部族会議議長に就任すると、すぐに議会で強権を振るい始めた。就任最初の週で、議会メンバーのバージル・L・キルズストレートを排斥し、正式な部族の評議会を通さずに5人のメンバーによる行政委員会によって議会を支配し、部族会議へは事後報告するだけだった<ref>{{cite book | last = Reihardt | first = Akim D. | title = Ruling Pine Ridge | publisher = Texas Tech University Press | year = 2007 | location = Lubbock | pages = 134–137, 151–152}}</ref>。ウィルソンは部族民に言論や集会の自由、また[[パウワウ]]さえ禁止し、ウィルソンに批判的な者たちは、その理由のみで追放された。公衆衛生局から5人の同僚とともに職を解かれたエレン・ムーブス・キャンプはこう述べている。
 
:「ウィルソンが議長になってから、部族会議彼の私有物になってしまった。彼の選挙運動は、村々に牛を引いてきて、そこで牛を殺して肉を分配するというやり方でした。みんなそれにだまされた。よほどパインリッジの人たちは腹をすかせてたんでしょう。」
 
===独裁者となる===
ウィルソンの主な支持者はパインリッジの町民だったが、の外にいる「伝統派」はウィルソンに批判的だった。彼は混血をひいきし、失業率が過半数を超える保留地の中で、自分の親戚縁者に部族内の主要な役職を与え、重用した。連邦政府に保留地内の部族の土地323㎢を国立公園用地として明け渡し、政治資金の援助を受けた。アメリカの極右集団[[ジョン・バーチ・ソサエティ|ジョン・バーチ協会]]の思想を喧伝し、同協会の[[プロパガンダ]]映画を上映した。また、私設の暴力団を組織し、ウィルソンに反対する部族民の家に放火させ、銃弾を浴びせて脅迫し、殺した。先述のエレン・ムーブス・キャンプは次のように語っている。
 
:「部族警察は彼の言いなりでした。BIA警察も全く黙認していました。ウィルソンの暴力団はウィルソンを少しでも批判する者を探し出しては、脅迫や暴行を加え、家に放火しました。連邦政府がなぜこんな暴力団を容認するのか理解できませんでした。私たちは自衛のため武装し始めましたが、こんなことは前代未聞でした。」
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1973年2月22日、公聴会が始まり、ヴィンセント・サンダーブルの弾劾委員長就任が満場一致で決定した。弾劾手続きは翌日始まった。ウィルソンは議長権限を振りかざして公聴会を延期させ、サンダーブルもこれを認めた。訴追者側が退席した後、議会は14対0の票決で弾劾公聴会を終わらせた。
 
AIMの動きに対し、ウィルソンは部族会議の建物を、[[レッドネック]]を多数加え、重武装させたグーンズに護衛させた。また、アメリカ連邦政府に連邦憲兵隊の出動を要請し、これに応えて州警察やFBIも、マシンガンやロケット砲を備えた戦車や特殊車両を30台用意して援助し、BIA事務所、学校、郵便局などに武装した兵を配置した。
 
1973年2月27日、スー族の長老と酋長たちはOSCROとともに、部族を交えたAIMメンバーを招いて再び対ウィルソンの大会議を開いた。スー族の女たちは決死の覚悟を伝え、男たちも呼応した。彼らは83年前に合衆国によってスー族が大虐殺された「チャンクペ・オピ」([[ウンデット・ニー|ウーンデッド・ニー]])で戦いの狼煙を上げることを決定した。彼らは聖なる[[パイプ (タバコ)|パイプ]]を回し飲みして大精霊に誓いを立てた。夕刻、会議場の外の600人のスー族に、ラッセル・ミーンズはこう宣言した。
 
:「我々は合議の結果、ポーキュパイン村で大集会を開くと決定した。みなさんもどうぞご同行ください。」
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OSCROとスー族、AIMの老若男女は、ウーンデッド・ニーでスー族相手に暴利をむさぼる白人業者ギルダースグレイブのウーンデッド・ニー交易店を占拠し、部族民から巻きあげた権利書や年金小切手を奪還した。続いて向かいにある聖心カトリック教会を占拠し、塹壕を掘ってここを本拠とした。
 
ウィルソンはグーンズ、BIA警察、州警察、FBIの250人を超える包囲隊を結成した。ポーキュパイン村に、ペンタゴンの指令を受けて、全米から派遣された連邦憲兵隊が殺到した。米軍はウィルソンのために、M113戦車<!--[[M113装甲兵員輸送車]]?-->を16台、戦闘用ヘリコプター3機、[[F-4 (戦闘機)|F4ファントム戦闘機]]を投入し、現代アメリカにおけるインディアン民族の決起は、全世界に衝撃を与えた。かれらの占拠に呼応した南米[[ブラジル]]、[[チリ]]、[[アルゼンチン]]の[[少数民族]]がデモ行進を行い、全米からインディアンや支援白人が占拠に加わった。
 
ウィルソンは彼に批判的な地元紙「シャノン郡ニュース」の発行人宅を爆破し、発行人の妻を負傷させ、編集所を破壊した。一方、インディアン支援の動きも広がり、3月7日には支援物資の飛行機投下が行われ、ウィルソンを怒らせた。
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:「間違いなくウーンデッド・ニーで誰かが死んでいくのさ。奴らが死んだとしても、さぁて、そんなものはボールが弾むのと同じこった。」
 
占拠を視察したアメリカ空軍の空挺師団参謀長ボルニー・ワーナー大佐は、「インディアンは無害である」とし、連邦保安官らをさんざん嘲笑って帰った。連邦政府も全世界が報じるこの長期占拠の中で、妥協案を示し始めた。ウィルソンはこれに憤慨し、声明を出した。
 
:「この占拠は共産主義者による、役人、州知事の辞職を迫り、社会を混乱に陥れようという長期的な陰謀だ。我々はこれに対抗して愛国義勇軍とすえして18歳以上の頑健な男子を募集する。ぜひ参加して欲しい。 指揮官には海兵隊のチェスティ・プラー将軍を招くつもりだ。我々が君たちを組織化し訓練しよう。連邦政府が腰砕けとなれば、我々がウーンデッド・ニーを攻撃し、トカス(インディアン)、ワシチュース(白人)、ハサパス(黒人)、スピオラス(ヒスパニック)を殉教者として皆殺しにしてやろうではないか」
 
4月17日に再び大規模な支援物資の飛行機投下が行われ、また地上では徹底的な検閲のなか、夜陰に紛れて援助に訪れるインディアンを始め、多人種グループは引きも切らなかった。このなか、4月27日に支援参加した[[チェロキー族]]・[[アパッチ族]]のフランク・クリアウォーターが射殺された。クリアウォーターは命を捧げたウーンデッド・ニーに埋葬されることを望んだが、ウィルソンはクリアウォーターがスー族でないことを理由に埋葬を許可しなかった。同じく射殺されたオグララ族のバディ・ラモントの埋葬も阻止しようとしたが、これは果たせなかった。
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===ウーンデッド・ニー占拠の後===
BIAやウィルソンは徹底的な部族民のテロ弾圧を行った。家々に銃弾や爆弾が撃ち込まれ、目を撃ち抜かれた7歳の少女もいた。その後三年間で、ウィルソンの部下によって殺されたスー族部族は100人以上と伝えられている。
 
OSCRO代表のペドロ・ビソネットは10月17日にBIA警察によって射殺された。ラッセル・ミーンズもスタンディングロック保留地でBIA警察に背後から撃たれ重傷を負った。
 
1974年2月7日、ラッセル・ミーンズら12人の候補者が議長選挙に名乗りを上げると、投票箱を地下室に持ち込み、密室で非公開の開票を行うなどの不正を行った。それでも得票はミーンズの方が上回ったがウィルソンはこれを弾圧し、裁判所を通じてミーンズの保留地退去を振りかざして議長の座を降りなかった。
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1975年1月17日、議長選挙で和平派のアル・トリンブルに敗れる。ウィルソンは4月までの残り任期3ケ月をかけて、部族民への嫌がらせを徹底的に行った。1月31日、トリンブルの最大支持母体のワンブリー村をグーンズを使って襲撃、家々に銃弾を浴びせた。政敵のバイロン・デサルサ弁護士の自動車を待ち伏せして自動小銃で射殺した。2月には6人のAIM弁護士の暗殺を支持したとして告発された。
 
最後の犠牲者はミクマク族AIMの[[w:Anna Mae Aquash|アニー・マエ・アクアッシュ]]だった。彼女はワンブリームラの雑木林の雪の中で頭に銃弾を撃ち込まれた死体となって見つかった。ここに至っても連邦政府は反AIMの姿勢を変えなかった。FBIは「指紋を調べるため」という理由で彼女の両手首を切断してワシントンに送った。ウィルソンはなおもグーンズを使って脅迫とテロを続けた。オグララ村は、グーンズのテロからの警護要請をAIMに打診した。
 
1975年6月26日、オグララ村で、警護に当たっていたAIMのジョー・キルズライトと、FBIのロナルド・ウィリアムとジャック・コーラーが銃撃戦となり、3人とも死んだ。オグララ村には[[デニス・バンクス]]や[[w:Leonard Peltier|レナード・ペルティエ]]らAIMメンバーが大勢共同体キャンプを張っており、ウィリアムとコーラーは「カウボーイブーツの盗難捜査」という名目で、このキャンプを襲ったのだった。結局ペルティエと[[w:Leonard Crow Dog|レオナルド・クロウドッグ]]が逮捕され、ペルティエは政治犯として無実のまま現在も服役中である。