「小諸藩牧野氏の家臣団」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m typo
74行目:
小諸惣士草高割成立当時より加増されている主要家臣は、加藤と佐々木の2家が代表例である。加藤は小諸惣士草高割成立前に、父祖たちが末期養子を立て、小諸祇園祭りでの不祥事で格式を下げていたものが、加藤成徳一代の功労で格式の回復がほぼ認められ、佐々木は小諸惣士草高割成立以降に、短期間ではあるが家老準席に抜擢されたためである。用人格未満の家でも数例が加増されており、これらの諸士は実質、大加増といえる。
小諸惣士草高割の持高と、改革による役職手当増額整備後の持高を比較したとき、その減石幅が、同僚・同格の諸士より、大きな重臣は、木俣(227石から130石に減少)と、河合(200石から120石に減少)である。家老の家柄となっていた木俣は繰り返し懲罰を受け、家老の家柄を取りあげられたためである。また家老本職・家老準席に抜擢され、これを勤めあげた河合は、与板在封期に家禄100石に過ぎなかったが、歴代が順次班を進めたほか、史料学的には小諸藩の洪水の被害状況をつぶさにまとめた文書を残したことで知られる。しかし、その惣領は小諸藩江戸屋敷の門限を破り、塀を乗り越えて邸内に忍び込んだところを捕まったほか、これとは別件で、藩主の怒りに触れて減石された部分を含み、用人格末席の格式(持高120石)となっていた。減石された後も、与板在封期の約2倍の実禄があり、幕末近くにも用人・加判等の要職に就任していた。
 
== 主な役職の概要 ==
331行目:
家老の家柄となって、4代目の稲垣源太左衛門(正良)は[[文化]]元年(1804年)7月18日、御内存により退役・隠居が命じられたが、家督相続を認められず改易となった。文化3年(1806年)、実子とみられる惣領の稲垣此面某に名跡再興が認められ高50石、中小姓に列するも、文化6年、町方女と稲垣貢宅でおこした不祥事により15石を減石され高35石、中小姓末席に降格された。文化10年、家老を罷免された父と共に許されて元席となり、後に班を進めて番頭となった。時に持高63石、役高加増分93石の計156石であった。家老職であった父が許されても家禄・持高・席次は元には復さなかった。
 
稲垣此面某から家督を相続した養子・稲垣市右衛門は、嘉永6年(1853年)、町方の敷地を昼夜問わず占拠して通路を塞いで私的利用をしたことにより、同年隠居を命じられて、持高15石を減石の上、2男に家督相続が許された(持高35石)。減石理由は長男を廃して2男に家督を相続させたことではない。9代藩主によって、隠居・減石を命じられたが、家督相続後、稲垣此面正利(異に乎次郎)は、9代藩主に用いられて、班を進めた。表中小姓を勤めた後に給人席を経て、2度にわたり加増。奏者格(持高70石)・士分上禄の格式が認められるまでに回復した。
 
小諸家臣・稲垣貢家の初見は、明和4年(1767年)、稲垣貢が養父稲垣貢から家督を相続した記事を記載した分限帳である(時に80石、寛政4年から奏者)。実家は真木九馬左衛門家(実父は真木造酒右衛門)である。 当家は、兄家系の稲垣源左衛門家の末裔か、その名跡を継承しているものか、若しくは、小諸藩家老稲垣氏から分家として分出されたものかは、史料がなく不明である。 小諸稲垣貢家は持高70石で給人・側用人などを勤めていたが、当家は文化5年(1808年)12月8日に、町方女に屋敷の出入りを許し、稲垣此面等に当家屋敷内で不祥事をおこさせたことを責められ、文化6年に一時失脚。その後、大きく班を進めて、家老に次ぐ重臣、用人職に抜擢された(文化12年の分限帳に用人、180石、稲垣左一兵衛とあり)。 文政11年(1828年)、稲垣貢家(稲垣桂次)は、稲垣此面から養子入りした男子に家督を相続させて、給人となった。妻は文政7年に輿入れした真木兵橘2女であるため、婿養子ではなかった。前後するが用人に抜擢された稲垣左一兵衛から、稲垣桂次に家督を相続した記事については、史料がなく不明である。