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更に[[1895年]]には、オイルを満たしたケースにギアセットを納める「密閉型ギアボックス」を備えた[[トランスミッション]]を実用化<ref>それ以前のギアセットは床下露出状態で砂塵に晒されており、騒音も酷く消耗も激しかった。</ref>、続いて車体前端への[[ラジエーター|ラジエター]]<ref>ラジエターはまだこの時点では、フィン付きのパイプを屈曲させただけの原始的設計だった。</ref>の設置や、丸ハンドルの導入など、現代にも通じる、自動車技術史上に残る重要な発明を成し遂げ、自動車の実用化、工業化に多大の貢献を行った。
 
この過程で、1895年から[[1903年]]にかけて多くの自動車レースにも勝利した。中でも1895年のパリ・[[ボルドー]]レースでの勝利は、既に52歳で若くなかったエミール・ルヴァッソール自身が2気筒パナールのハンドル(丸ハンドル導入前で、直進性の悪い梶棒であった)を握り、往復1200km1,200kmを昼夜兼行・50時間不眠不休で操縦するという超人的活躍で1着を達成したもので、モータースポーツ史の黎明期における名高い戦績である<ref>ダイムラーの新設計による2気筒1200cc1,200cc・5馬力「フェニックス」エンジンを搭載したエミール・ルヴァッソール操縦の2座パナール「No.5」は、パリ-ボルドー往復1178kmを48時間48分で走破して、このレースの1着となった。ただしレースのレギュレーションである「4座以上」の条件を満たさなかったため、正式な優勝者とはならなかった(ルヴァッソールも承知の上での出場であった)。延べ50時間に及ぶ連続ドライブは偶発事態と言うべきもので、スタートからルヴァッソールの運転ペースがあまりに速すぎ、途中交替地点に予定から大幅早着の深夜着となってしまったのが原因である。折悪しく交替ドライバーはまだ就寝中であったため、大幅リードに勢い付いていて、後続車に差を付けたかったルヴァッソールは、結局、途中で助手だけ乗せ替えて、ほとんど休憩を取ることもなく、往復全区間を運転しきってしまった。歓呼の声に迎えられてパリにゴールしたルヴァッソールは、[[ブイヨン]]とゆで卵を平然と平らげてから「深夜のレースは危険であるから避けた方が良い」と語ったという(当時の夜間ドライブは[[馬車]]並みの石油ランプに頼るほか無く、照明改良は以後も安全面での切実な課題であり続けた)。[[1907年]]、フランス自動車クラブ(ACF)はルヴァッソールの壮挙を顕彰するため、ボルドーレースの発着点となったパリ市内のポルト・マイヨに、ルヴァッソールとパナールNo.5を彫刻した記念碑を建てている。</ref>。
 
=== 高級化と保守化、スリーブバルブへの固執 ===
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1953年には第二世代の[[パナール・ディナZ|ディナZ]]にモデルチェンジする。プレス加工容易なアルミ・[[マグネシウム]]合金「デュラリノックス」が実用化され、ボディに至るまでの内製が可能になったことによるものであった<ref>ディナXの車体生産が無くなって遊休設備を抱えたファセル・メタロン社はファセル・ヴェガを自社開発し、高級車市場に進出する。</ref>。
 
ディナZの特色は、ボディサイズと排気量の極端なアンバランスにあった。全長4570mm4,570mm・全幅1600mm1,600mmの6人乗りという、当時の他社2000cc2,000ccクラス([[ルノー・フレガート]]、[[シトロエン・トラクシオン・アバン|シトロエン11CV]]など)に匹敵する、大きなセダンボディを持っていたにも関わらず、ドライブトレーンはディナX末期型の最大エンジンである851cc・42HP2気筒を流用していたのである。
 
それでも実用になった理由は驚異的な軽量さであった。ボディ・シャーシ全体いっさいをアルミ合金で構築し、当初はボディ装飾用のモールに至るまで全てアルミ製とした徹底的な軽量設計で、最初の[[1954年]]型では総重量わずか650kgという数値を実現、更に車体全体に丸みを帯びた空力スタイルを導入することで、2000cc2,000cc級のライバルと同等の最高速度130km/hを達成しつつ、リッターあたり14.3kmという優れた燃費性能をも兼ね備え、正にフランス的合理主義の極限を行くエキセントリックなモデルとなった。
 
当時、イギリスの名門自動車雑誌「オートカー」は、ディナZについて「これほど峻厳に効率を追求した自動車はかつて例を見ない」と高い評価を与えた。オールアルミ合金の本格量産車としては最初の事例でもあり、その先進性・独創性によって後世からの歴史的評価も高い。
 
しかし、ルノーやシトロエンには生産規模で大きく水を開けられていたこともあり、ディナ系「X」「Z」各車の製造コストは非常に高かった。例えば850ccで2000cc2,000cc級ボディを持つ「Z」は、その価格も他社2000cc2,000cc車の廉価モデルに近いほど高価で、市場で大きな成功を収めることはなかった。
 
===シトロエン傘下入りと乗用車生産の終了===
[[Image:Panhard PL17 1964 front.jpg|thumb|250px|パナール PL17 1964。1960年代以降の末期パナールに共通する、ブレーキ冷却フィン付きホイールを備える]]
[[Image:07.02.10-Panhard 24 1ct.jpg|thumb|right|250 px|パナール 24 CT, 1966]]
慢性的な経営不振から、1955年以降は[[シトロエン]]の傘下に入り、一部工場では[[シトロエン・2CV]]の生産を分担して稼働率を維持するようになる。ディナZシリーズも[[1956年]]モデル以降、徐々に[[鋼|スチール]]製パーツの比率を高めるようになって重量増加、[[1960年]]以降はついに800kg超過のオールスチールボディとなって「PL17」と改称された。虎柄の内装を持つ高出力版「ティグル」(Tiger=[[トラ|虎]]の意)が追加され、重量増による性能低下を補った。
 
最後のパナール乗用車となるのは[[1964年]]登場の[[パナール・24|24]]シリーズで、PL17と[[コンポーネント|コンポーネンツ]]を共用しながらも、明らかにシトロエンの息がかかったデュアルライトのスマートなボディを備えたモデルであった。特にフロントエンドには[[1967年]]以降の[[シトロエン・DS]]との共通性が強く、デザインの先行例であったことが伺える。新設計の2ドア[[セダン]](24B=ベルリーヌ)、2ドア[[クーペ]](24C=クーペ)は[[シトロエン・アミ]]6と[[シトロエン・DS|ID19]]の中間車種として、[[スペシャルティカー]]的位置づけを与えられていた。高出力版「ティグル」も引き続き存在し、それぞれ24BT・24CTと呼ばれ、4輪[[ディスクブレーキ]]が与えられた。
 
しかしニューモデルの投入をもってしても形勢挽回には至らず、[[1965年]]、[[シトロエン]]に乗用車部門を吸収され、1967年には一般向け乗用車の生産を終了、[[軍用車両]]専門メーカーとなる。[[1970年]]に発売される[[シトロエン・GS]]には、24系のノウハウも生かされたと言われる。
 
=== 軍用車両メーカー ===