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誕生時につけられた始皇帝の[[諱]]は「政」という。彼は秦ではなく[[趙 (戦国)|趙]]の首都・[[邯鄲]]で生まれた。そのため「趙政」とも呼ばれた<ref name="RGH">‘‘Records of the Grand Historian: Qin Dynasty'' (English translation). (1996). Ssu-Ma, Ch'ien. Sima, Qian. Burton Watson as translator. Edition: 3, reissue, revised. Columbia. University Press. ISBN 0231081693, 9780231081696. pg 35. pg 59.</ref>。父は後に[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]となる秦の公子・「子楚」(別名:異人)。彼は[[休戦協定]]の[[人質]]として趙に送られていたが<ref name="Huang" />、祖父の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]はしばしば約束を破って軍事攻撃を仕掛けていた。子楚の父・安国君(後の[[孝文王 (秦)|孝文王]])は昭襄王の次子で、子楚自身にも20人以上の[[兄弟]]がおり、しかも彼は[[妾]]腹であった。子楚は秦王を継ぐ可能性がほとんど無いどころか、いつ殺されても仕方が無い空手形に等しく、趙も彼を冷遇していた<ref name=Yoshi21>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.21-30、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐1]]</ref>。
 
そんな彼に、[[韓]]の裕福な商人であった[[呂不韋]]が目をつけた。大金を投じて安国君の正室ながら子を産んでいなかった{{仮リンク|華陽太后|zh|华阳太后|label=華陽夫人}}に工作活動を行い、また子楚へも交際費を出資し評判を高めた<ref name="Ren" />。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、子楚は呂不韋の妾の{{仮リンク|趙姫|zh|赵姬}}<ref name="Huang" />を気に入り譲り受けた。彼女は、昭襄王48年(前259年)の正月に男児を産んだ。正月にちなみ「政」と名づけられたこの赤子が、後に始皇帝となる<ref name="Wood1" /><ref name="RGH" /><ref name=Yoshi21 />。
 
=== 血筋に対する議論 ===