「ジョン・クランコ」の版間の差分

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1950年)を制作した。1950年、23歳でサドラーズ・ウェルズ・シアター・バレエ団の常任振付家となり、翌1951年からは本家のサドラーズ・ウェルズ(現[[ロイヤル・バレエ団]])向けにも振付を行った。しかし[[フレデリック・アシュトン|アシュトン]]の存在が大きく、十分な振付の機会がなかったため、1960年にシュツットガルト・バレエ団<ref>当時の正式名称は「[[バーデン=ヴュルテンベルク州|ヴュルテンベルク]]州立劇場バレエ」(Württembergische Staatstheaterballett)。</ref>に移籍した。
 
シュツットガルトでは抽象作品のほか、ナレーションや映像が入る実験的な作品まで幅広く手掛けたが、今日でも評価が高いのは演劇性の高い物語バレエである。1958年に振付けていた 『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロミオとジュリエット]]』 は再演されシュツットガルトで再演されレパートリーとして定着した。また[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の小説をバレエ化した『[[オネーギン (バレエ)|オネーギン]]』はヒット作となり、このためにドイツの一地方都市のバレエ団に過ぎなかったシュツットガルト・バレエ団は世界中から招請を受けるカンパニーにまで成長した。
 
[[1973年]]6月、成功裡に終わった3度目の[[ニューヨーク]]公演の帰路、医師から処方されていた睡眠薬・[[抱水クロラール]]を飛行機内で服用したところ、その[[副作用]]で[[嘔吐|吐瀉]]を起こし、窒息して意識不明となった。機長の判断で[[アイルランド]]の[[ダブリン空港]]に緊急着陸したが、このときすでに絶命していた<ref>[[#Percival 1983|Percival]], p.228. なお死因を[[心臓麻痺]]とする文献もある ([[#Vollmer 1993|Vollmer]]) が、Percivalの記述の方が詳細で具体的である。</ref>。45歳没。
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バレエを習うのは自分が踊るためでなく、振付家になるため<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']], p.23</ref>というほど作品づくりに情熱を抱いていた。ダンサーとしての出演は[[1950年]]で終わったが、その後は作品の構想を得るために多い時で一日3冊の書籍を読んでいたという<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.54</ref>。
 
創作のみならず、他人を登用することにも長けていた。1950年代にダンサーとして伸び悩んでいた[[ケネス・マクミラン]]はクランコの勧めで振付を手掛けるようになった<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.91</ref>。またシュツットガルトでは[[ピーター・ライト]]をバレエマスターに起用して団の水準の底上げを図り、同時に作品も作らせていた(後に英国で活躍)。またソリストとして起用した[[マリシア・ハイデ]]はやがてシュットガルトの花形舞踊手となり、物語バレエのプリマとして有名になった。このほか、クランコの下からは[[ジョン・ノイマイヤー|ノイマイヤ]]、[[イジー・キリアーン|イジ・キリアン]]といった振付家が育っている。
 
クランコ自身は、振付家として成功するには以下の3点が必要だと述べていた<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.191</ref>。