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== 経歴 ==
[[1902年]](明治35年)[[6月7日]]に[[九鬼水軍]]の末裔である四日市九鬼家の[[九鬼紋七]]の長男として誕生した。幼名の九鬼金平改め『九鬼紋十郎』を襲名した。父の九鬼紋七は[[衆議院議員]]などを務めた政治家であり、九鬼産業グループを経営する実業家であった。[[1929年]](昭和4年)に[[東京帝国大学]][[文学部]]美学美術学科を卒業した。大学卒業後は政治家となり四日市市議会議員に就任した。四日市市議会副議長、四日市市議会議長を歴任する。九鬼産業グループを経営する九鬼財閥の総帥で四日市市の有力実業家として、[[1946年]](昭和21年)から[[1951年]](昭和26年)の期間にははじめて四日市商工会議所の会頭(第6代)となった。後に[[1963年]](昭和38年)にも会頭(第9代)となり<ref>{{cite web|url=http://www.wa.commufa.jp/m554mizu/yo_top1/nen06.htm|title=四日市のあゆみ 昭和21年→昭和63年|publisher=四日市へようこそ|accessdate=2012-06-24}}</ref>、以降、[[1980年]](昭和55年)までに通算21年間にわたり商工会議所会頭として四日市市の財界で活躍した<ref name="jec">{{cite web|url=http://www.einap.org/jec/committee/yokkaichi/activity_report_full.pdf|format=PDF|title=四日市環境再生 まちづくりプラン検討委員会 最終活動報告書|publisher=日本環境会議|page=65|year=2008|accessdate=2012-06-24}}</ref>。さらに、三重県商工会議所連合会長や[[日本商工会議所]]の常議員などの財界の役職を務めた。財界人として[[中外ピストン]]の取締役、[[四日市築港]]の取締役、尾張時計株式会社(現在の[[尾張精機]])の取締役を歴任した後、[[三岐鉄道]]の社長と[[1963年]](昭和38年)に会長に就任。[[東海ストア]]株式会社の社長、[[三重銀行]]の取締役を歴任した。[[1946年]](昭和21年)の[[第22回衆議院議員総選挙]]で[[日本進歩党]]から当選。衆議院議員から参議院議員に鞍替えして[[1947年]](昭和22年)の[[第1回参議院議員通常選挙]]で当選。衆議院議員1期、参議院議員1期を務めた。四日市市長となった[[九鬼喜久男]]は、紋十郎の娘・高子の娘婿で四日市九鬼家の養子であった。喜久男が四日市市長であった期間([[1966年]] - [[1972年]])、紋十郎は2度目の四日市市商工会議所会頭職にあって、[[四日市近鉄百貨店]]社長なども務めており、地域名望家である九鬼家による地元政財界の独占的支配があったと評されている<ref name="jec" />。四日市市大字松本在住。勲三等[[旭日中綬章]]受章。[[1986年]](昭和61年)[[10月6日]]死去<ref>廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』(昭和60年出版)の169ページの『九鬼紋十郎の項目』</ref>。
 
==趣味==