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高校卒業後、[[大阪]]の美術学校に入学。この美術学校を卒業後、東京へ移る。
 
{{和暦|[[1942}}年]](昭和17年)、[[円谷英二]]の招きで[[東宝]]映画『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』([[山本嘉次郎]]監督)の[[ミニチュア]]製作に参加。
 
{{和暦|[[1945}}年]](昭和20年)、日本敗戦。
 
戦後、[[川尻泰司]]の人形製作に参加。[[田中友幸]]や、[[馬淵薫|木村武司]]らとともに、「大阪協同劇団」で演劇活動を行う。
 
{{和暦|[[1948}}年]](昭和23年)、東宝を辞めた円谷監督が自宅内に「円谷特殊技術研究所」を設立。これに参加。
 
{{和暦|[[1954}}年]](昭和29年)、『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』製作のため、円谷監督に招かれ、[[東宝撮影所]]に入所。ゴジラの粘土原型から始め、日本初の映画怪獣ゴジラの[[ぬいぐるみ]]制作を行う。
 
以後、[[特撮映画]]の[[怪獣]]専門の[[造形]]チーフを担当する。
 
{{和暦|[[1971}}年]](昭和46年)、[[東宝特殊技術課]]の廃止に伴い[[東宝撮影所]]を退社、フリーとなり、以後TV作品などに参加。
 
==人物・エピソード==
{{和暦|[[1954}}年]](昭和29年)の『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』では、当時小田急の[[狛江]]に住んでいたが、電車の中で円谷監督に偶然会い、それから一カ月後に「すぐ来てほしい」との電報を受け、『ゴジラ』制作に参加することとなったという。円谷監督とは、戦時中の『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』で組んだ仲だった。翌日から撮影所に缶詰めになり、「ゴジラ」の2尺粘土原型の制作を行った。この作業は秘密裏に行われ、5、6人の関係者にしか知らされなかったという。
 
東宝特美課ではおもに怪獣の頭部造形を担当していた。そのほとんどは、「1)細部の凹凸まで再現した細目の金網で、または2)粘土原型を石膏型で抜いた[[ラテックス]]で、怪獣の頭の「芯」を作り、3)これらの「芯」にラテックスを浸み込ませた綿やウレタン片などを盛り付けていく」という、「直付け(じかづけ)」と呼ばれる手法で作られた。