「明治六大教育家」の版間の差分

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'''明治六大教育家'''(めいじろくだいきょういくか)は、[[1907年]]([[明治]]40年)に「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」<ref>[[辻新次]]「全国教育者大集会開会の辞」(『帝国教育会沿革志』102-103頁。</ref>として[[顕彰]]された6人の教育家を指す呼称。顕彰当時は'''故六大教育家'''<ref>『帝国教育会沿革志』156頁、『帝国教育会五十年史』115頁、『東京都教育会六拾年史』157頁。</ref>または'''帝国六大教育家'''<ref>顕彰記念誌のタイトルに用いられたもの。全国教育者大集会編『帝国六大教育家』を参照。</ref>と称されたが、[[大正|大正期]]以降に「明治六大教育家」「明治の六大教育家」という呼称が見られるようになった<ref>『[http://books.google.co.jp/books?id=T1icNmX5cjUC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 宮城県図書館創立記念展覧会出品目録]』[[宮城県図書館]]、1921年10月、1-2頁、「この学校 攻玉社中学・高校(男子)」(『[[産経新聞]]』1995年10月17日付夕刊、東京版、7面)、岡本武男「スポーツと躾」(『産経新聞』1998年8月11日付朝刊、東京版、16面)。</ref>。
 
[[1907年]][[明治]]40年)5月、[[帝国教育]]、[[東京府教育会]]、[[東京市教育会]]共同主催の全国教育家大集会が[[東京工業大学|東京高等工業学校]](東京工業大学の前身)講堂で開催され、集会2日目に故六大教育家追頌式が執り行われた<ref>『東京都教育会六拾年史』156-158頁。</ref>。{{要出典範囲|date=2012年8月|既に「帝国四大私塾」として特別に扱っていた評価の高かった私学を創立したという基準で4人を選出し、その後[[学制改革]]をした2人を追加して6人とした。}}顕彰された6人は以下の通り。
;[[大木喬任]]:[[文部卿]]として近代的な[[学制]]を制定
;[[森有礼]]:[[明六社]]の発起代表人、[[文部大臣]]として学制改革を実施
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;[[福澤諭吉]]:[[学校法人慶應義塾|慶應義塾]]を創立、[[法学]]・[[経済学]]を中心に幅広い[[思想家]]として著名
 
なお、東京に所在する[[学校法人攻玉社学園|攻玉塾]][[慶應義塾]][[同人社]]を特にまとめて「明治の三大塾」「三大義塾」と称することもある。{{要出典範囲|date=2012年8月|これも帝国教育会が大正から昭和20年までにかけてまとめた明治維新期の私塾に対する評価が基礎となっている。ただし、当初の帝国教育会では「帝都三大義塾」と称しており、それが大正期に入ると「明治帝国三大義塾」などと表記されるようになったという経緯がある。}}なお、[[津田塾大学|津田塾]]や[[学校法人二松学舎|二松學舎]]、[[尺振八]]が開いた[[共立学舎]]などを攻玉塾や同人社と交換して「三大塾」と称する事例が散見されるが、帝国教育会がこれらを三大塾として扱った文献はなく、文献も明示されていないことが多いため、どのような記述が根拠になっているのかは不明確である。例えば、[[共立学舎]]については、[[墨田区立両国小学校]]脇にぶらり両国街かど展実行委員会が立てた立て札に「東京の三大私塾」とも呼ばれたという記述が見られるが、参考とした文献は不明で、誰がそう読んだかについてはこの立て札には記載されていない。
 
また、帝国教育会の「明治の三大塾」と混同されるのが、「東京三大予備校」である。これは[[夏目漱石]]の「落第」と題された文章<ref>夏目漱石著中学文芸』夏目漱石全集 110第4号』[[筑摩書房]]〈筑摩全集類聚〉読売新聞日就社1972年1月初出は1906年。[[青空文庫]]で閲覧可([http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card2676.html 青空文庫 図書カード:No.2676]。</ref>にも記載が見られるもので、[[大学予備門]]の入学試験勉強を教授した私塾のことを指している。さらに同書には「予備門へ入るものは多く[[成立学舎]]、[[共立学舎]]、[[進文学舎]]、――之は[[坪内逍遥|坪内さん]]などがやって居たので[[本郷 (文京区)|本郷]]壱岐殿坂の上あたりにあった――其他之に類する二三の予備校」(参考『筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10』、[[夏目漱石]]、[[筑摩書房]]、1972年)として「成立学舎、共立学舎、進文学舎」を代表事例としてあげているだけであり、前後には二松学舎の名前も見られる。{{要出典範囲|date=2012年8月|これらが帝国教育会の評価と混同され、三大私塾の区分け方が複数発生したのが現状である}}
 
== 脚注 ==