「マウリッツ (オラニエ公)」の版間の差分

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戦争は[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]総督の[[パルマ公国|パルマ]]公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]がオランダの都市を奪い続けていたが、[[1588年]]の[[アルマダの海戦]]でスペインが敗北、翌[[1589年]]にスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[フランス王国|フランス]]の内戦([[ユグノー戦争]])に介入してパルマ公をフランスへ出兵させたため、その隙に都市奪還を図り[[1590年]]に[[ブレダ]]、[[1591年]]に[[デーフェンター]]、[[ジュトフェン|ズトフェン]]、[[ナイメーヘン]]を、[[1592年]]に[[スティーンワイカーラント]]、[[1593年]]に[[ヘールトラウデンベルフ]]を奪還してオーファーアイセル州・ヘルダーラント州・[[北ブラバント州]]を回復、[[1594年]]には[[フローニンゲン州]]も取り戻してオランダの領土を拡大、[[1597年]]までに再び北部7州をまとめ上げた。[[1596年]]にはイングランド・フランスとグリニッジ条約を締結、2国からオランダの承認・対スペイン同盟締結でオランダの地位を固めた<ref>ブロール、P48 - P50、ウェッジウッド、P359 - P363。</ref>。
 
教養人でもあったマウリッツは、[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]時代の軍事に関する文献を踏まえつつ、自らの軍隊に独自の教練を施して軍の強化に成功し、[[1597年]]の[[トゥルンハウトの戦い (1597年)|トゥルンハウトの戦い]]、[[1600年]]の[[ニーウポールトの戦い]]で勝利を重ね八十年戦争を優勢に進めた。しかし[[1603年]]から参戦したスペインの将軍[[アンブロジオ・スピノラ]]が南部の都市を奪還して回り、[[1604年]]にグリニッジ同盟が解散、スペインが国家破産を宣言するなど深刻な財政難に陥っていたスペイン・オランダ両国は次第に戦争を継続することが困難になり、[[1608年]]より[[デン・ハーグ|ハーグ]]で和平交渉が行われ、最終的には[[1609年]]に[[アントウェルペン]]で12年間の休戦協定が成立した。
 
戦時中の[[1602年]]に[[オランダ東インド会社]]が設立してオランダがアジアに進出、毛織物貿易が盛んに行われオランダは黄金時代を迎えることとなる([[オランダ海上帝国]])。一方で父が暗殺されたようにオランダ内部では絶えず政争が続いていて、休戦協定はホラント州法律顧問の[[ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト]]が商人層を代表して結んだが、庶民派とマウリッツは協定に不満で両者は対立関係となり、宗教問題で[[カルヴァン主義]]の[[予定説]]をどう解釈すべきかで政治問題に発展、オルデンバルネフェルトは予定説を柔軟に解釈すべきとする[[レモンストラント派|寛容派]]に属したが、マウリッツは厳格に解釈しようとする[[オランダ改革派|厳格派]]に肩入れし、[[1618年]]に開かれた[[ドルト会議|ドルトレヒト会議]]で厳格派が主流となり[[ドルト信仰基準]]が採択され、[[1619年]]にオルデンバルネフェルトを処刑して自らの政権を維持した<ref>ブロール、P52 - P69、森田、P251 - P253、ウェッジウッド、P363 - P366。</ref>。