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夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の[[京都府立鴨沂高等学校]])へ進んだ。「府一」と称された同校は京都の名門校であった。卒業後は勉強を続けたい本人の希望に沿って同志社女子専門学校英文科(現在の[[同志社女子大学]])へ進学した。
 
[[1923年]]、田鶴子は「家事都合」を理由に専門学校を中退、翌年[[3月]]に母志げが47歳で急死した。すぐに大定ツルという女性が後妻として入った。亡母の勧めていた見合い話に沿って田鶴子は高岡という産婦人科医と見合いをし、[[1925年]]に21歳で結婚した。しかしこの結婚生活はうまくいかず、田鶴子は家を出て実家に戻った。出戻った田鶴子に周囲の目は冷たく、彼女は自分で働いて生きていこうと決意。映画業界を志し、父に紹介されて[[1929年]]に[[日活京都太秦撮影所]]に監督助手として就職した。そこで田鶴子は前任者の合田光枝(女優[[原節子]]の実姉)と入れ替わる形で映画監督・[[溝口健二]]の下につくことになり、健二・千枝子(千恵子とも、本名:田島かね)夫妻の知己を得た。以降、田鶴子は溝口組の一員として映画作りに携わり、実務を学んでいく。
 
[[1932年]]に溝口が日活を退社して[[新興キネマ]]へ移ると田鶴子も誘われて同社へ移った。(以降、溝口が会社を移ると田鶴子もそれについていくことになるが、当時の映画業界は徒弟制度の性格が強かったため、このようなことがよく起こった。<ref>池川玲子、『帝国の映画監督 坂根田鶴子』、吉川弘文館、2011年、p17</ref>)溝口はそこで『[[滝の白糸]]』(1933([[1933]])や『祇園祭』(1933年)、『神風連』(1934([[1934]])と続けて撮り、田鶴子は監督助手として溝口を助けた。1933年、「滝の白糸」を共同制作した[[入江プロ]]から田鶴子に監督をやってみないかという声がかかったが、結局実現しなかった。1934年に溝口は田鶴子を連れて[[東京府|東京]]へ移り、[[日活多摩川撮影所]]へ入社した。このころ、再び田鶴子に監督昇進の声がかかったが、スタッフたちの反応が冷たく、実現に至らなかった。このとき、田鶴子は[[ジーン・ウェブスター|ウェブスター]]の『[[あしながおじさん|足長おじさん]]』の映画化を企画していたという。<ref>池川、p21</ref>)。失意の田鶴子は溝口に誘われるままに再び京都に戻り、できたばかりの[[第一映画]]に入社した。京都で父の近くで暮らし始めた田鶴子は溝口の下で『[[折鶴お千]]』、『[[マリアのお雪]]』、『虞美人草』(すべて[[1935年]])の助監督を務めた。
 
32歳の田鶴子に再び監督昇進の声がかかった。ここに至ってようやく実現し、田鶴子は[[小杉天外]]原作の『はつ姿』を映画化することになった。『初姿』は[[高柳春雄]]が脚本を書き、田鶴子がメガホンをとった。溝口も監督補導として作品に名前を連ねている。キャストは[[月田一郎]]、[[大倉千代子]]らであった。映画は完成し、1936年[[3月5日]]に封切られた。こうして坂根田鶴子は日本初の女性映画監督となった。『初姿』は興業的には成功せず、批評家からも良い評判が得られなかったが、田鶴子は屈せず、溝口と映画を作り続けた。
 
当時は映画産業の隆盛期で人材も流動していた時代、溝口は経営状況の悪化した第一映画を離れ、新興キネマ、[[松竹下加茂撮影所]]と職場を移していく。田鶴子は溝口の後をついていった。そこで生まれたのが『[[残菊物語]]』(1940([[1940]])、『[[浪花女]]』(1940年)であった。『浪花女』では溝口が初めて[[田中絹代]]をキャスティング。以降、2人はコンビで優れた作品を生み出していく。そして絹代は後に日本で2人目の女性映画監督になる。この頃、溝口との距離を感じ始めた田鶴子はどうしてもまた監督がやりたいと思い、溝口の推薦をもらって[[理研科学映画]]株式会社へ入社した。そこで彼女は[[北海道]]に赴いて、[[アイヌ]]の暮らしをテーマにしたドキュメンタリー『北の同胞』(1941([[1941]])を撮影した。
 
この頃、田鶴子とも親交の深かった溝口の妻千枝子が精神に変調をきたし、[[京都府立病院]]へ入院した。千恵子の入院当日も溝口は撮影所に赴いて仕事を続けたため、話を聞いていたスタッフたちはあっけにとられた。千恵子の入院で混乱したこの時期に溝口は田鶴子にプロポーズしたという<ref>大西悦子『溝口健二を愛した女』、三一書房、1993年、p157および池川、p48参照</ref>。しかし当然受けられるはずもなく、[[1942年]]に田鶴子は振り切るように[[満州]]に渡って[[満洲映画協会]](満映)に入社した。田鶴子は即戦力として啓民映画部に所属することになった。
 
[[新京]]到着後、さっそく満映で『勤労的女性』なる作品を作り上げた田鶴子は続けて『健康的小国民』、『開拓の花嫁』、『野菜の貯蔵』、『暖房の焚き方』などを撮っていった。日本の敗色濃い中、田鶴子は『室内園芸』、『春の園芸』、『救急ノ基本』、『基本救急法』などを仕上げた。しかし、[[1945年]][[8月15日]]に日本は無条件降伏、[[8月20日]][[ビエト|ソ連軍]]が新京に到着。日本に帰れる目処もたたないまま、満映はソ連軍に接収された。やがてソ連軍と入れ替わりに進駐してきた[[八路軍]]によって満映のスタッフの一部は[[東北電影公司]]に採用され、田鶴子もそこで職を得た。[[1946年]][[8月]]、ようやく帰国が許され、田鶴子は50名の日本人と共に新京から[[錦州]]を経てようやく日本の土を踏んだ。1946年[[10月21日]]であった。
 
京都の実家に戻った田鶴子は下加茂撮影所に溝口を訪ねた。溝口は一瞬田鶴子が誰なのかわからなかった。あまりの変貌に驚いたものの、溝口は再び田鶴子を松竹に戻してくれた。しかし、松竹内での勢力争いもあって田鶴子は助監督として入社できず、編集課の記録係としての採用になった。千枝子の亡弟の妻を事実上の妻としつつ、女優田中絹代との関係も深めていた溝口にとっても、すでに田鶴子は過去の存在であり、単なる記録係以上のものではなかった。
 
長くヒット作に恵まれていなかった溝口は『[[夜の女たち]]』(1948([[1948]])のヒットで息を吹き返した。そして[[1952年]]に絹代と撮った『[[西鶴一代女]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭]]で監督賞を受賞、たちまち溝口を世界の巨匠に押し上げた。絹代は監督業に進出し、『[[恋文]]』(1953([[1953]])を初監督した。田鶴子の撮った『初姿』から17年がたっていた。溝口も『[[雨月物語]]』(1953年)、『[[山椒大夫]]』(1954([[1954]])と続けて高い評価を得て、『楊貴妃』(1955([[1955]])、『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』(1955年)と円熟の境地に達していたが、[[1956年]][[8月24日]]に[[骨髄性白血病]]で世を去った。
 
[[1962年]]に[[松竹京都撮影所]]を定年で離れた後もアルバイトという形で[[1970年]]まで映画にかかわり続け、1975年(昭和50年)9月2日、胃がんで世を去った。享年71であった。死去の約4ヶ月前に公開されたドキュメンタリー映画『[[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]』に取材協力として出演している。
 
==監督作品==