「ジェス・トーマス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
アメリカのテノール歌手。第一級のヘルデン・テノールの一人。en:Jess Thomas(21:46, 15 November 2012‎‎‎ UTC)の翻訳がベース。
 
編集の要約なし
26行目:
| Notable_instruments =
}}
'''ジェス・トーマス'''('''{{lang|en|Jess Thomas}}''', [[1927年]][[8月4日]] - [[1993年]][[11月15日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[歌手]]([[テノール]]歌手
 
歌手としてのデビューは30歳と遅かったものの、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]を主要レパートリーとする一級のヘルデン・テノールの一人として、[[バイロイト音楽祭]]などで活躍した。6[[フィート]](183センチメートル)を超す長身と暗色のカーリーヘアの持ち主であったが、知的な才能と注意深い表現力を持ち合わせており、他のアメリカのテノール歌手よりもオペラの主人公にふさわしい歌手とたたえられた<ref name="Independent">[[#Independent]]</ref>。
 
==生涯==
35行目:
1958年9月、トーマスは[[カールスルーエ]]の歌劇場と3年契約を結んで専属となった<ref name="Independent"/>。カールスルーエではワーグナー『[[ローエングリン]]』のタイトルロールでデビューし、その他[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]、ヴェルディ、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]および[[シャルル・グノー|グノー]]の諸作品にも出演<ref name="Independent"/>。1960年にはリヒャルト・シュトラウス『[[ナクソス島のアリアドネ]]』のバッカス役で[[ミュンヘン]]にデビューし、翌1961年には[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]指揮の『[[パルジファル]]』のタイトルロールでバイロイト音楽祭、[[カール・ベーム]]指揮のヴェルディ『[[アイーダ]]』のラダメス役で[[ベルリン・ドイツ・オペラ]]にそれぞれデビューした<ref name="Independent"/>。1963年11月21日と23日、トーマスは[[第二次世界大戦]]での被害から復興した[[バイエルン国立歌劇場]]「ナツィオナール・テアーター」の一連の再建記念公演に出演し、21日にはリヒャルト・シュトラウス『[[影の無い女]]』の皇帝役、23日はワーグナー『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』のヴァルター・フォン・シュトルツィング役を歌った<ref name="Independent"/>。『マイスタージンガー』でのヴァルター役は、1962年12月に[[メトロポリタン歌劇場|メトロポリタン歌劇場(メト)]]でのデビュー時にも歌っており、メトでは主に『[[タンホイザー]]』のタイトルロール、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]『[[フィデリオ]]』のフロレスタン、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]『[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]』のサムソン、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]『[[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]』のレンスキーを持ち役としており、公演のたびに[[ニューヨーク]]に戻っていた<ref name="Independent"/>。1966年にメトが[[リンカーン・センター]]に移転した際には、[[サミュエル・バーバー|バーバー]]がメトのために書いた委嘱作『{{仮リンク|アントニーとクレオパトラ (オペラ)|en|Antony and Cleopatra (opera)|label=アントニーとクレオパトラ}}』で[[アウグストゥス|オクタヴィウス]]役を演じたが、トーマスはこの作品の台本を書いた[[フランコ・ゼフィレッリ]]から、「作品自体は[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の[[アントニーとクレオパトラ|同名作品]]だが、ここではオクタヴィウスに[[ケネディ家]]の一員をだぶらせている」ことを教えられる<ref name="Independent"/>。トーマスはメトに15年間在籍し、95公演で15もの主役を演じた<ref name="jess">[[#Jess Thomas]]</ref>。
 
この間、ヨーロッパでも1964年と1965年の[[ザルツブルク音楽祭]]でベーム指揮にによる『ナクソス島のアリアドネ』バッカス役を演じ<ref name="jess"/>、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]によって創設された[[ザルツブルク復活祭音楽祭]]にも1969年と1970年に出演し、『[[ニーベルングの指環]]』にジークフリート役で出演した。[[フランス]]と[[イギリス]]においても[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]には1967年に『[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]]』のジークムント役、1972年に『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』のトリスタン役で出演し、[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン]]には1969年から1971年の間にトリスタンと『マイスタージンガー』のヴァルターの役で出演した<ref name="jess"/>。パリ・オペラ座でジークムントを演じたのと同じ1967年には[[大阪国際フェスティバル]]におけるバイロイト音楽祭公演のため日本を訪問し、ここでも[[トーマス・シッパーズ]]の指揮によってジークムントを演じた<ref>[[#NHK50]] p.205</ref>。なお、この時期のトーマスには[[ヴィーラント・ワーグナー]]のアイデアによる、「死んだジークムントがジークフリートとしてよみがえる」という演出による『指環』出演([[ウィーン国立歌劇場]])も企図されていたが、ヴィーラントの急逝で実現しなかった<ref name="Independent"/>。ジークフリート役は1974年にメトでも演じ、バイロイト音楽祭100年にあたる1976年にも[[パトリス・シェロー]]の演出による公演で出演したが、この時の出来はメト出演時のものに及ばなかった<ref name="Independent"/>。
 
1981年12月9日、当時54歳のトーマスはサンフランシスコ歌劇場音楽監督の{{仮リンク|クルト・ヘルベルト・アドラー|en|Kurt Herbert Adler}}から、当日の『ワルキューレ』でジークムント役を歌う予定の[[ジェームス・キング]]が声が出なくなって出演できなくなり、代演するよう依頼を受けたトーマスは久しぶりにジークムントを演じることとなり、スコアも見ていなかったものの経験により勘を武器にキングの代わりをこなし、公演翌日のマスコミはトーマスの代演をたたえる記事を書きたてた<ref>{{cite web | title = My First Walkure | work = The Berkeley Daily Planet | accessdate = 2013-03-05 | url = http://www.berkeleydailyplanet.com/issue/2006-12-29/article/26003?headline=My-First-Walkure&status=301 }}</ref>。翌1982年、トーマスは[[ワシントンD.C.]]におけるメト引っ越し公演の『パルジファル』にゲスト出演したのを最後に現役を退いた<ref name="jess"/>。引退生活ののち、1993年10月11日に[[サンフランシスコ・ベイエリア]]の{{仮リンク|ティブロン (カリフォルニア州)|en|Tiburon, California|label=ティブロン}}で亡くなった<ref name="Independent"/>。66歳没。2人の息子と1人の娘がいる<ref name="Independent"/>。
79行目:
[[Category:テノール歌手]]
[[Category:サウスダコタ州の人物]]
[[Category:ウェールズ系アメリカ人]]
[[Category:1927年生]]
[[Category:1993年没]]