「東洋紡績富田工場」の版間の差分

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イオンモール四日市北の商業用地となり紡績工場は取り壊された。東洋紡績富田工場だっだ広大な松原地区所属の四日市市富州原町の空き地は[[1919年]]([[大正]]8年)建設の原綿倉庫だけ文化財として保存された。[[文化財]]の原綿倉庫は5棟が連続に続いて並んでいて、5棟の倉庫には東側から順番に[[アラビア数字]]で番号が書いてあった。<ref>http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/toyoboseki.html</ref>
 
東洋紡績富田工場は、[[1918年]](大正7年)に完成した第1工場・第2工場・第3工場をはじめ、[[1934年]](昭和9年)までにミシン糸工場、原綿倉庫、ガス焼室、事務所、教育をする学院施設、講堂棟、松原元町社宅、松原宮町社宅、松原町社宅(東松武町自治会所属の社宅)、男子寮、女子寮などが建設された。広大な面積の松原宮町に20万㎡あった東洋紡績富田工場と社宅の松原宮町自治会の敷地は、東洋紡績の紡績工場施設のなかでも最大規模であった。
 
[[21世紀]]になり原綿倉庫のみしか富田工場だった建築物が残っていない。原綿倉庫の建物は改装されて、JUSCO四日市北店フードスタジアムと云う名称のレストラン館として活用された。壁の面を補強する控え壁が縦に伸びた倉庫の間には、重厚な扉と扉の上部には通気口が設けられた 。ショッピングセンターの[[イオンモール四日市北]]の一角として、[[飲食店]]の[[ビュッフェ]][[レストラン]]の「[[ひな野]]」やイオンの女性従業員が使用する[[保育所]]の「ちびっこランド四日市と呼ばれるイオン四日市北園保育所」として活用されている。東洋紡績富田工場の敷地は[[四日市岡田家]]の富洲原進出で広大なイオン四日市北ショッピングセンターとして再開発された。原綿倉庫は加工前の精錬されていない綿を保管していた倉庫で、[[1918年]]([[大正]]7年)に建設された。桁行きは約18mで、梁間は約9mの規模で、全体の構造は煉瓦造で平屋建で木造によるトラスの構造である。屋根の構造は切妻造のセメント瓦葺であり、外部の構造は煉瓦造仕上げであり、基礎の構造は煉瓦造布基礎だった。入り口の上部分に換気窓を設置して、内部は煉瓦造であり、側壁を格子組の材で保護した。国の[[登録有形文化財]](建造物)で指定登録日は[[2000年]]([[平成]]12年)[[4月28日]]である。文化財の原綿倉庫の所在地は 四日市市富州原町221-1 で所有者は[[三菱UFJ信託銀行]][[株式会社]]である。5棟一体 で構造は 煉瓦造平屋建・瓦葺である。建築面積は1072㎡である。