「東洋紡績富田工場」の版間の差分

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==生産体制==
[[1914年]](大正3年)には工場建設用地の三重郡富洲原町の大字松原小字塩役と松原地区の宮町自治会の社宅地を買収しており、[[1916年]](大正5年)6月に建設工事を開始して、[[1918年]](大正7年)5月に精紡機15000錘を備え付けて操業を開始した。[[1930年]](昭和5年)には精紡機139500錘、撚糸木28160錘で東洋紡績の全工場で最大規模の工場となった。[[大正時代]]に制定された[[労働法]]の[[条文]]の[[女子]]の[[深夜労働]]禁止で工場設備の[[合理化]]が進んだ。製品の高級化も進み、[[1924年]](大正13年)に瓦斯糸機60000錘の第2工場と第3工場に設置して、[[1928年]](昭和3年)には他の紡績会社に存在しない、[[イギリス]]の[[プラット]][[社]]製の精綿機12台を設置した。[[戦時中]]が東洋紡績富田工場のピーク時で、従業員と生産量が最大規模となり精紡機械が139568台、撚糸錘が70360台、織気が2224台、従業員は男性従業員が362人いて、女性従業員が2955人で東洋紡績全工場の約8%比率を誇っていた。三重県四日市市の中心地域にある東洋紡績四日市工場は[[四日市空襲]]で被災して、三重県[[津市]]の東洋紡績津工場は[[津空襲]]で被災して、三重県[[桑名市]]の東洋紡績桑名工場は桑名空襲など[[日本本土空襲]]で被災したが東洋紡績富田工場のみ[[戦災]]に合わす無事であった。
 
設備の拡張と合理化や製品の高級化が進み、最新工場として整備された。大正末期にガス糸を紡出するようになり、昭和7年度に織布工場が建設されて、[[レース]]・[[メリヤス]]が一貫生産されるようになった。ガチャマン景気で繁栄した昭和20年代の東洋紡績富田工場は、精紡機は105040錘、より糸機は39200錘、織機は1744台を数えた。2交代で働く東洋紡績富田工場従業員は昭和26年度に4581人となった。<ref>東洋紡績70年史</ref>国鉄関西線富田駅の引き込み線から[[蒸気機関車]]が走り、東洋紡績富田工場南端にある原綿倉庫の[[プラットホーム]]に到着すると、[[四日市港]]で陸揚げされた[[綿糸]][[原料]]の[[エジプト]][[綿]]・[[インド]]綿・[[米国]]綿を入れた麻袋を次々を倉庫に運んだ。<ref>読売新聞平成25年1月31日水曜日北勢版21面</ref>[[国道1号]]線が東洋紡績富田工場の敷地の西隣に立地して、建設された大正時代から戦後期は国鉄富田駅が西南方面にあり、東側には富洲原港に流れる[[塩役運河]]があった。国鉄の引き込み線が西南部の原綿倉庫まで延びており、東洋紡績富田工場と[[四日市港]]とが直接鉄道で結ばれ、原料輸送や製品の輸送が盛んだった。戦後、[[トラック]]による輸送がさかんになり、[[引き込み線]]は[[廃線]]となり撤去された。