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*[[応永]]6年([[1399年]]):妙心寺6世住持[[拙堂宗朴]]が[[応永の乱]]に敗れた[[大内義弘]]に連座、寺領は[[足利幕府]]に没収、上仁和寺庄は[[石清水八幡宮]]領、下仁和寺庄は幕府領とされた。[[応永記]]には応永の乱の際、下仁和寺庄[[守口城|森口城]]に拠る大内方守将[[杉九郎]]200余騎が堺城に呼び戻されたとの記述がある。この頃、十七箇所はそれぞれ[[禁裏御料]]、幕府料所、足利氏一族料所とされた。
*[[文明 (日本)|文明]]15年([[1483年]]):[[応仁の乱]]後も河内を巡り争った[[畠山義就]]と[[畠山政長]]が十七箇所で戦い、義就方が[[犬田城の戦い]]で政長方に勝利、十七箇所の領有を確定させた。後に[[三好氏]]の同族争いの場ともなり、南北朝期まで続いた河内の荘園体制が崩壊、十七箇所は自治的な[[惣村]]制に移行。やがて十七箇所の西側にある榎並荘に[[榎並城]](十七箇所城)が現れ、この付近一帯の一大拠点となる。
*[[石山本願寺]]成立後、8代[[蓮如]]の時、下仁和寺郷は[[一向宗]]の勢力に組み込まれる。同郷守口(この頃、森口よりこの表記が多く見られる)に[[寺内町]]が築かれ、石山本願寺51塁の筆頭として[[織田氏]]に対抗した。
*[[元亀]]元年([[1570年]]):[[三好三人衆]]が四国より侵入し、織田信長に味方した旧主[[三好義継]]、[[畠山昭高]]らを攻める。翌年、義継も信長に反旗を翻す。
*[[天正]]2年([[1574年]]):[[信長公記]]によれば[[佐久間信盛]]が河内の[[三好氏]]、[[一向一揆]]勢を破る。