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== 生涯 ==
長保元年([[999年]])[[中宮職|中宮大進]][[平生昌]]邸において誕生。后腹の第1皇子であったが、当時外祖父である[[中関白家|中関白]][[藤原道隆]]は既に亡く、また伯父[[藤原伊周|伊周]]の失脚で母の実家は没落し力を失っていた。しかも敦康の誕生と同日に[[藤原道長]]の長女[[藤原彰子|彰子]]が[[女御]]宣下を受けていた。
 
誕生翌年の長保2年([[1000年]])4月18日、[[親王宣下]]を受けたが、同年末、2歳で母后を失った。その後、母后の末妹([[御匣殿 (藤原道隆四女)|御匣殿、道隆四女]])が母代として宮中で親王とその姉妹の[[脩子内親王|脩子]]・[[び子内親王|媄子]]両[[内親王]]を養育した。しかし御匣殿も程なく没したため、父帝の配慮でまだ子がなかった[[中宮]]彰子に養育が託され、他の姉妹と離れて彰子の局[[飛香舎]]に移された<ref>『権記』長保3年([[1001年]])8月3日条によれば、「漢明帝令馬皇后愛養粛宗之故事」([[後漢]]の[[明帝 (漢)|明帝]]が[[明徳馬皇后|馬皇后]]に生さぬ仲の[[章帝 (漢)|粛宗]]を養育させた故事)を藤原行成が奏上したのが聞き入れられて養子縁組が実現したという。</ref>。長保3年([[1001年]])11月13日、同所にて着袴<ref>[[七五三]]を参照。</ref>。同年、天皇側近の[[藤原行成]]が親王家の勅別当に任命された。