「オッカムのウィリアム」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[1285年]]、[[イングランド]]のオッカム村<ref>Ockham, Occam や Hockham などとも綴る。</ref>に生まれる<ref>サリー(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 398ページ)</ref>。[[オックスフォード大学]]で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師<ref>聖書、教父、注釈学者の解釈を集めたベトルス・ロンバルドゥス『命題集』を注釈する職のこと(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 398ページ)</ref>の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。[[普遍論争]]では急進的な[[唯名論]]の立場に立つ。1323年、ジョン・ラットレルから異端だとしてアヴィニョンにある教皇庁に訴えられる。[[ローマ教皇]]・[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]と対立、1324年、[[異端審問]]のため当時アヴィニョン(フランス)にあった教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。
このとき[[マイスター・エックハルト]]も異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。
 
オッカムはフランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンから[[ミュンヘン]]へ逃亡し、[[聖職叙任権]]などをめぐり教皇と対立していた[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地で[[ペスト]]によって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。
 
==信仰と理性==