「フレデリック・ウィレム・デクラーク」の版間の差分

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== 概要 ==
[[国民党 (南アフリカ)|国民党]] (NP) の政治家で大統領を務めたこともある{{仮リンク|ヨハンネス・デクラーク|en|Johannes de Klerk}}の息子として[[ヨハネスブルグ]]で生まれる。[[1958年]]にポッチェフストローム大学の法律科を卒業。[[弁護士]]を経て、[[1972年]]に[[国民党 (南アフリカ)|国民党]] (NP) の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入り。[[1978年]]に郵政相に就任として初入閣し、その後[[1982年]]に内相、NPの旧トランスバール州代表に選ばれた。[[1984年]]からは国民教育相、白人閣僚評議会議長を務めた。[[1989年]]2月、大統領ボータの後任としてNP党首に指名され、同党の次期大統領候補に推挙、8月から大統領代行の後、9月に正式に大統領に選出された。
1936年に[[ヨハネスブルグ]]で生まれる。[[1958年]]にポッチェフストローム大学の法律科を卒業。
弁護士を経て、[[1972年]]に[[国民党 (南アフリカ)|国民党]] (NP) の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入り。
[[1978年]]に郵政相に就任し、その後[[1982年]]に内相、NPの旧トランスバール州代表に選ばれた。[[1984年]]からは国民教育相、白人閣僚評議会議長を務めた。[[1989年]]2月、大統領ボータの後任としてNP党首に指名され、同党の次期大統領候補に推挙、8月から大統領代行の後、9月に正式に大統領に選出された。
 
大統領に就任したデクラークは今までの政府(国民党)の方針から方針転換し、黒人達との交渉によって南アフリカを決めていくといった現実的で柔軟な民主改革路線をとった。その政策方針により、[[アフリカ民族会議]] (ANC) やパン・アフリカニスト会議 (PAC) 、南ア共産党の非合法化を解除し、アフリカ民族会議指導者の[[ネルソン・マンデラ]]を釈放した。[[1990年]]6月には非常事態宣言も解除して、[[1991年]]2月に国会開会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、6月には人口登録法、原住民土地法、集団地域法を廃止した。これによりアパルトヘイトが法律上なくなった。[[1993年]]度マンデラと共に[[ノーベル平和賞]]を受賞した。
 
[[1994年]]5月にマンデラ政権が発足すると第二副大統領に就任するが、[[1996年]]5月9日に連立政権から離脱して野党に転向。同6月末に第二副大統領を辞任し、翌[[1997年]]9月には国民党首を辞任して政界から引退した。
[[1993年]]度マンデラと共に[[ノーベル平和賞]]を受賞した。
 
[[1994年]]5月にマンデラ政権の第二副大統領に就任。
 
[[1996年]]5月9日にアフリカ民族会議との連立政権をやめ、国民党が野党になることを宣言。同6月末に第二副大統領辞任。
 
[[1997年]]9月NP党首を辞任して政界から引退した。
 
== 関連項目 ==