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1585年にホラント州およびゼーラント州の総督に任命された[[マウリッツ (オラニエ公)|マウリッツ・ファン・ナッサウ]]は、1591年までに更に[[ユトレヒト州]]、[[ヘルダーラント州]]、[[オーファーアイセル州]]総督にも就任し、反乱側の指導者としての地位を確立する。1596年にはフランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約)を締結し、うやむやのうちにネーデルラント連邦共和国が成立していたことになった<ref>ネーデルラント連邦共和国は独立宣言を行っていないため、その成立の時期を特定することは出来ない(森田、前掲書、251ページ)</ref>。
 
共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント諸州は1602年、連合東インド会社([[オランダ東インド会社]])を設立してアジアに進出し、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]から香料貿易を奪取し、世界の海に覇権を称えた。このため貿易の富が[[アムステルダム]]に流入して、[[17世紀]]の共和国は[[オランダ黄金時代|黄金時代]]を迎えることとなる([[オランダ海上帝国]])。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれたが、1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ[[三十年戦争]]にもつれ込んだ。1648年、三十年戦争を終結させた[[ヴェストファーレン条約]]の一部であるミュンスター条約で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80年にわたる戦争は終結した。
 
[[ファイル:VOC Amsterdam.jpg|thumb|left|VOCアムステルダム号(復元)]]
オランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地を築いた。しかし各地の植民地で[[イギリス東インド会社]]と衝突し、ついには3次にわたる[[英蘭戦争]]となり、次第にイギリスより劣勢に立つことになった。
 
1672年、イングランドがオランダに宣戦布告し(第三次英蘭戦争)、続いてフランス王国も宣戦を布告した([[オランダ侵略戦争]])。この国家的危機のため、1672年は「{{仮リンク|災厄の年|en|Rampjaar}}」と呼ばれる。{{仮リンク|オラニエ派|en|Orangism (Netherlands)}}と共和派の対立も深まり、ついには1653年以来共和制の指導者であった[[ヨハン・デ・ウィット]]兄弟が倒され、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]が[[オランダ総督|総督]]職に就いた。
 
1688年、ウィレム3世はイングランドへ侵攻し、[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]は国外へ逃れた([[名誉革命]])。ウィレム3世は妻[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]とともにイングランドの共同統治者(ウィリアム3世)となり、イングランド(および[[スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]])とネーデルラントは1702年までの20年余、ともに同じ元首を頂くことになった。18世紀始めに勃発した[[スペイン継承戦争]]ではネーデルラントは[[フランス]]・スペインを相手にイギリスとともに戦った。しかし18世紀末葉になるとフランスの[[啓蒙思想]]が共和国にも流入し、統領職を代々世襲する[[オラニエ=ナッサウ家]]に対する反感が高まった。