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'''渟足柵'''(ぬたりのき、ぬたりのさく)は、古代日本の[[城柵]]の一つで[[越国]](高志国)に置かれた。'''沼垂城'''とも書いた。[[647年]]に現在の[[新潟県]]に大化3年([[新潟市647年]][[東区 (新潟市)|東区]]藤見地区の王瀬から河渡付近かれていたとされ、廃絶の時期は不明だが8世紀初めまでは存在した。史上最初の城柵と目される。
 
なお、渟足柵・沼垂城共に遺構は発見されていない。ただでさえ当時は信濃川と阿賀野川の河口の沼地だった上、度重なる洪水により流されたものと思われる。
 
== 概要 ==
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[[皇極天皇|斉明天皇]]4年([[658年]])7月4日に、渟足柵造の[[大伴君稲積|大伴稲積]]が、蝦夷の朝献に際して[[小乙下]]の[[冠位]]を授けられた。このときには、位置不明の[[都岐沙羅柵]]造とともに、多数の蝦夷が位と物を授かった。蝦夷が招かれたのは[[阿倍比羅夫]]の北航の成果であり、渟足柵造がそこで何らかの役割を果たしたことが示唆される。
 
文献史料にみる渟足柵の跡はここで途切れるが、[[1990年]]に、[[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[和島村]](現・[[長岡市]])の[[八幡林遺跡]]で、「沼垂城」「養老」という字が書かれた[[木簡]]が出土した。そこで、[[養老]]年間([[717年]] - [[723年]])に渟足柵が沼垂城の名で機能していたと推定できる。
 
別に、[[威奈大村]]墓碑に見える[[慶雲]]2年([[705年]])の[[越後城]]を、改名された渟足柵ではないかとする説もある<ref>『高志の城柵』110-113頁。</ref>。
磐舟柵、都岐沙羅柵、渟足柵はともども遺跡が発見されていない。この当時の柵がどのようなものだったかは推測というより想像で語るほかない状況である。
 
== 立地 ==
渟足柵は平安時代の『[[倭名類聚抄]]』に見える[[沼垂郡]]沼垂郷にあったのであろう。近世以降現在に至るまで沼垂という地名があり、地形的には[[信濃川]]と[[阿賀野川]]の合流点付近の海岸平野で、水運が重要だった当時の高志(越)の交通に沿った立地である。
 
しかし単純に現在の沼垂とできないのは、[[沼垂町]]が河道変化の影響で近世の初めに4度も移転したことが知られているからである。知られるかぎり最古の場所は現在の[[新潟県]][[新潟市]][[東区 (新潟市)|東区]]の王瀬で、ここが有力候補ではある<ref>『新潟県史』通史編1(原始・古代)389頁。『高志の城柵』4頁。</ref>。中世にも同様に河道の変化にともなって移転された可能性があり、古代の沼垂の正確な位置は不明である。王瀬ではボーリング調査によって水田跡が見つかっているが、それ以上の調査は及んでいない<ref>『高志の城柵』4頁。</ref>。
 
==脚注==
<references />
 
== 参考文献 ==
*新潟県・編集発行『新潟県史』、1986年。
*小林昌二『高志の城柵』(新大人文選書)、高志書院、2005年。
 
== 関連項目 ==
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[[Category:飛鳥時代]]
[[Category:越後国]]
[[Category:中央区 (新潟市)]]
[[Category:新潟県の城]]
[[Category:城柵遺跡]]