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遠征軍はまず[[ブダ]]を包囲したが落とせず、隣の[[ペシュト|ペスト]]を落としただけに終わった。しかし翌[[1685年]]に[[ノヴェー・ザームキ|ノイヘウゼル]]を占拠してからは順調に進み、[[1686年]]にブダを奪還、ハンガリーの大半を手に入れた。[[1687年]]にドナウ川を南下して{{仮リンク|モハーチの戦い (1687年)|tr|Mohaç Muharebesi (1687)|de|Schlacht bei Mohács (1687)|en|Battle of Mohács (1687)|label=モハーチの戦い}}でオスマン軍に勝利、トランシルヴァニアにも進出した。アパフィ・ミハーイ1世は協定を結びトランシルヴァニアは実質上ハプスブルク家が領有、テケリは抵抗を続けたが味方の大半がオーストリアに寝返ったため没落、以後はオスマン帝国の援助を受けながら蜂起を繰り返していった。
 
この間、ヴェネツィアは[[アドリア海]]に艦隊を派遣して[[ダルマチア]]・[[ボスニア]]を襲撃、1685年に[[ギリシャ]]に進み1687年に[[ペロポネソス半島]]を占領した(戦闘中に[[アテネ]]の[[パルテノン神殿]]爆破事件が発生)。1686年に至りロシアが神聖同盟に加盟し、[[ツァーリ]]の[[イヴァン5世]]・[[ピョートル1世]]兄弟の姉で摂政[[ソフィア・アレクセーエヴナ|ソフィア]]が重臣の{{仮リンク|ヴァシーリー・ゴリツィン|ru|Голицын, Василий Васильевич|en|Vasily Vasilyevich Galitzine}}が率いるロシア軍を黒海に派遣、1687年と[[1689年]]の2度に渡りクリミア・ハン国に遠征したが、いずれも失敗した為<ref>長谷川、P293、パーマー、P34 - P38、マッケイ、P17 - 28。</ref>、ソフィアとゴリツィンが失脚して、[[ピョートル1世]]の母[[ナタリヤ・ナルイシキナ|ナタリヤ]]らの一族に委ねられた。
 
[[1688年]]に遠征軍は[[バルカン半島]]に進軍、[[セルビア]]の都市[[ベオグラード]]も陥落させた。同年にルイ14世がドイツの[[ライン川]]流域・[[南ネーデルラント]]([[ベルギー]])、[[イタリア]]に進軍して[[大同盟戦争]]が勃発、シャルル5世・マクシミリアン2世・オイゲンらがライン川、イタリアに派遣され、残されたルートヴィヒ・ヴィルヘルムが司令官としてハンガリー方面を受け持ち1689年に[[ピテシュティ]]を占拠した。オスマン帝国も対策を取り、1687年に[[スルタン]]・[[メフメト4世]]が廃位され弟の[[スレイマン2世]]が擁立、1688年に遠征軍に呼応した[[チプロフツィ]]の反乱を鎮圧、1689年に大宰相に任命された[[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]が反撃して[[1690年]]にベオグラードを奪還、ドナウ川戦線を立て直した。
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== 関連項目 ==
* [[オスマン帝国領ハンガリー]]
* [[マーチャーシュ聖堂]]
* [[コソボの歴史]]
* [[プリイェドル]]
* [[露土戦争 (1686年 - 1700年)]]
* [[マーチャーシュ聖堂]]
 
{{Template:ロシア・トルコ戦争}}