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'''梅北 国兼'''(うめきた くにかね、生年不詳- [[禄]]元年([[1592年]])6月)は、[[島津氏]]の家臣。[[薩摩]][[湯之尾]](現[[鹿児島県]][[伊佐郡]][[菱刈町]])の地頭で、島津軍の[[水軍]]を指揮した。禄元年(1592年)に起きた「[[梅北一揆]]」の首謀者。
 
梅北一揆は6月15日、国兼をはじめとする島津家臣が[[文禄の役]]の際に[[加藤清正]]が治める[[肥後国]][[佐敷城]]を占拠し、これに[[町人]]や[[農民]]が加わった総勢700ないし2000人が[[麦島城]]や[[八代城]]を攻撃した一連の反乱のことをいう。動機は、朝鮮出兵への反発にあったとも、[[豊臣秀吉]]の支配に対する反発にあったともいわれる。
 
国兼は6月17日に清正の部下の策略によって殺され、反乱はわずか3日で鎮圧されたとされていたが、近年、佐敷城の占拠は15日間に及んだとする説が浮上している。いずれにしても一揆は鎮圧され国兼は戦死した。国兼の首は朝鮮出兵の前線基地であった[[名護屋城]]に届けられて浜辺に晒され、胴体は[[佐敷]][[五本松]]に埋められたという。
 
その後、国兼は旧領である[[大隈|大隈国]][[山田庄]]において神として祀られた。現在も[[鹿児島県]][[姶良郡]][[姶良町]][[北山]]には国兼を祀る「[[梅北神社]]」が残っている。境内には[[西郷従道]]が奉納した[[石碑]]がある。