削除された内容 追加された内容
m 参考文献の追加
10行目:
父 寛斎や[[林述斎]]・[[柴野栗山]]に師事し、書は[[長崎]]に遊学し[[清国]]の[[胡兆新]]に学ぶ。その後、[[宋代]]の書家 [[米フツ|米芾]]や[[顔真卿]]らの書を敬慕し、その筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んでいる。
 
[[隷書]]・[[楷書]]を得意とし、[[寛政]]11年([[1799年]])、20歳の時に書塾 [[小山林堂]]を開いた。その後、[[和泉橋]][[藤堂氏|藤堂候]]西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。[[尾張藩|尾張徳川]]、[[黒田藩|筑前黒田]]、[[津藩|津藤堂]]、[[徳山藩|徳山毛利]]、[[鯖江藩|鯖江間部]]などの[[大名]]にも指南を行った。
 
書の流派である[[江戸唐様派]]の大家。同じく江戸で門戸を張った[[巻菱湖]](1777年 - 1843年)、京都の[[貫名海屋]](1778年 - 1863年)とともに[[幕末の三筆]]に数えられる。[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])に[[富山藩]]に仕えたが、[[文政]]4年([[1821年]])に家禄300石をもって[[加賀藩]][[前田氏|前田家]]に仕え、江戸と[[金沢]]を往復し指導に当たった。