「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」の版間の差分

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[[ファイル:Goethe.png|thumb|left|若い頃のゲーテの肖像。ヘルダーは、文芸評論家としてすでに有名であったのに対して、当時ゲーテは、まだシュトラスブルクの無名な学生であった]]
 
ドイツへの帰路船が難破したが、運良く救い出され、九死に一生を得た。途中の[[ハンブルク]]ではレッシングと会うことができた。その後、任務である王子のお供をし、[[イタリア]]へと旅立った。途中の街で、妻になる[[カロリーネ・フラックスラント]]に逢う。しかし、宮中の他の人物たちとうまが合わず、なかなか思うようにいかない旅行だった。そこで、ヘルダーへ彼の性格に適した牧師の話がヘルダーの所に届き、[[シュトラスブルク]]滞在中、王子に同伴の辞退を申し入れ、当地で持病であ病を癒しながらその準備をしていた時、当地の学生であった若き頃の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]がヘルダーを訪ねてくるというドイツ文学史上特筆すべき出会いがあった。ゲーテはヘルダーに、作風を訓練され、から[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]という新しい文学観を吹き込まれたのであった。1771年の春であった。
 
また、かねてからヘルダーの哲学において常に関心の中心にあった言語の問題に関する懸賞論文を執筆し、「言語起源論」として1772年に出版された。[[ヨハン・ペーター・ジュスミルヒ]]([[:w:Johann Peter Süssmilch|Johann Peter Süßmilch]])の言語神授説に対して、ヘルダーは言語を人間によってのみ作り出されたものであるとし、神による創造を徹頭徹尾否定したのである。この書は、神秘的な思想を持つ師匠のハーマンには批判されたが、後の世の[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]などにも、影響をあたえ、後の近代言語学の礎にもなった。