「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」の版間の差分

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=== リガからフランス滞在まで ===
当地リガの活躍はヘルダーの熱心な教育ぶりが買われ、好評であった。またハーマンの発行する文芸新聞にハーマンの詩の批評をすることができた。この批評も好評で、ヘルダーの文芸評論の才能を世間に認めさせることになった。1766年からは文筆活動も開始、「現代ドイツ文学断章」を出版。これは、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]、[[モーゼス・メンデルスゾーン]]、[[トマス・アプト]]らが中心となって編集していた「最近のドイツ文学に関する文学書簡」という雑誌に対する見解が元になっており、後の文芸評論に大きな影響を与えた。既にこの中に[[歴史主義]]的な見解が述べられ、ヘルダーの[[言語哲学]]・歴史哲学の大元が出来上がっている。この文芸評論によってたちまち著名になったヘルダーであったが、改版時にこの評論の中で当時[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の雄弁術教授、[[クリスティアン・アドルフ・クロッツ]]の詩に対する誤った評価が原因でクロッツによる非難が始まり、論争になった。ついで出版された「批判論叢」(あるいは批判の森。クロッツに対する反論)や「ヘブライ人の考古学」など、歴史家としてのヘルダーの著作が、[[汎神論]]的な見解によってリガで聖職者の身である人物にふさわしくないと非難される。これも一因となって彼はリガを去り、フランス文学に対する知見を広めようとフランスへ向けて旅立った。1769年であった。リガから中継地を経て、[[パリ]]にまで赴いた記録が「フランスへの旅の日誌」という著作である。ヘルダーは、フランスの哲学者の著作などを読みあさり、パリでは[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]や[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]を訪問した。ほどなくして、ドイツの王子の教養旅行の同伴者の話がきて、またドイツへと帰った。1770年のことであった。
 
=== ゲーテとの出会い ===
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シュトラスブルク滞在後、かねてから望んでいた牧師の職についた。場所は、[[ザクセン公国]](現[[ニーダーザクセン州]])の小都市ビュッケブルク(Bückeburg)である。文学だけでは生計がままならず、孤独な時期でもあった。1776年、[[ヴァイマル]]で政治家をしていたゲーテの尽力により、ヴァイマル公国の宗務管区の総監督につくことができ、学者として大いに活躍することができた。この頃のゲーテは、既に疾風怒濤の時代を離れていた。1780年代には、ヘルダーはゲーテと共同で当時タブーであった[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]の哲学を研究する(後の[[スピノザ論争]]の機縁にもなったが、現代におけるスピノザ研究の礎にもなった)など、ドイツでも屈指の著名な学者になっていた。1784年から1791年にかけて、未刊の大著『人類歴史哲学考』を著し、人類の歴史の発展過程を「[[人間性]]」という概念を軸に論述した。また[[フランス革命]]に感銘を受け、『人間性促進のための書簡』(1793-95年)を著した。これはかの歴史的出来事を、ヘルダーの依拠した人間性の観点から考察したものである。いずれも古典主義文学に見られるゲーテの美的世界観に対する批判でもあった。これらの書に対しては、ゲーテや[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、カントらから厳しい評価がなされる。
 
これへの応酬として、ヘルダーは、かつての恩師で当時ドイツ哲学界を席巻していたカントの唱えた批判哲学に対する再批判の書『[[純粋理性批判]]のメタ批判』(1799年)、『カリゴーネ』(1800年)を著す。ヘルダーによれば、カントの哲学は人間の意識を個々の諸能力に分解し、対象世界を「現象」と「物自体」という非生命的なものに分断しており、「純粋な理性」や「アプリオリな認識」などは人間理性本来の姿をわきまえない単なる「言葉の乱用」であり、カント哲学は人間理性の本来の姿である言語の問題をいっこうに直視していないという。人間性・歴史性を重視するヘルダーの哲学らしい立場をみせるが、これらの書で彼のカント哲学に対する誤解や理解不足も認められたのも事実であった。しかしヘルダーの哲学が、19世紀から20世紀にかけてカント以来のドイツ観念論哲学が批判的に検討され、歴史主義や人間学的な立場が旺盛になるにつれて、この先駆をなすものの一つとして評価されていることも見逃せない。
文化の中心地ワイマールにおいて、ヘルダーにしてみれば、時代が自身の考えを受け入れようとはせず、友人や恩師とも論争を繰り返さなければならないという、苦悩の晩年を過ごしつつ、1803年に59歳で没した。