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'''佐久間 盛次'''(さくま もりつぐ)は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の武将。[[織田氏]]の家臣。[[佐久間盛重 (久六)|佐久間久六盛重]](同じ織田家臣の[[佐久間盛重|佐久間大学允盛重]]とは同族で同名だが別人)の子。通称は久六、久六郎、久右衛門を名乗った。[[佐久間信盛]]は従弟にあたる。妻は[[柴田勝家]]の姉<ref>『寛永諸家系図伝』には勝家の姉婿とある。</ref>。
 
はじめ[[織田信行]]の配下であったが、のちに信行の兄の[[織田信長]]に仕える。[[犬山城]]主であったとの記録がある。[[弘治_(日本)|弘治]]3年([[1557年]])の[[名塚城]]攻めに信盛と共に信長方として参加した。その後も[[観音寺城の戦い]]、[[勝竜寺城]]攻め(いずれも[[永禄]]11年([[1568年]]))などに参加した記録があるが、その後の記録がなく、このころに亡くなったのではないかと推測されるが、詳細は不明。天正18年([[1590年]])10月、小国城一万石。文禄四年([[1595年]])、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられるという説もある
 
4人の男子があり、長男[[佐久間盛政|盛政]]は[[柴田勝家]]に従い北陸地方を転戦、[[金沢城|尾山城]]主となったが、[[賤ヶ岳の戦い]]に敗れ刑死した。次男[[佐久間安政|安政]]は[[保田知宗]]の養子となり、後に佐久間姓に復して[[信濃国]][[飯山藩|飯山]]3万石の藩主となった。三男[[柴田勝政|勝政]]は柴田勝家の養子となった。四男[[佐久間勝之|勝之]]は[[佐々成政]]の婿養子となり、後に佐久間姓に復して[[信濃国]][[長沼藩]]1万8000石の藩主となった。