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それ以前の[[皇室の系図一覧|皇統]]については、[[折口信夫]]の主張する[[中天皇論]]等を考慮すれば、女系天皇(純然たる女系あるいは男系でなく双系という意見もある)であった可能性も少なくないとの説もある。
 
明治以前は、天皇が在位していない期間に天皇として役割を果たした[[神功皇后]]を天皇とみなしていた(神功皇后の男系祖先は開化天皇であり、仮に神功皇后を天皇とみなしても男系女性天皇にあたり、女系天皇即位の前例になるわけではない)。ほかにも、[[飯豊青皇女|飯豊皇女]]や[[春日山田皇女]]なども政治を司ったという意味で天皇ではなかったかという考え方もある(両皇女も同様に男系で皇統に属する皇女であり、女系即位の前例にはならない)。さらに徹底して、[[折口信夫]]の[[中天皇]]あるいは民俗学者{{who|date=2015年6月}}がいうヒメ・ヒコ制で歴史を整理すれば、『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』の矛盾の多くが解決し、巨大[[古墳]]の被葬者の治定も容易に定まることになるとする意見もある(が、このことは特に皇位継承が女系足り得たかどうかとは関係しない)
 
なお、第38代[[天智天皇]]、第40代[[天武天皇]]、第42代[[文武天皇]]など女性天皇の子が即位した例もあるが、その子の父親すなわち女性天皇の夫もまた天皇・皇太子である(下掲系図を参照)。また、歴史学界からは相手にされない説であるが、鎌倉時代の『一代要記』、南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に記載の天武の年齢に基づくと、天武は天智より4歳年長であると解釈できることから、一部の研究家により第40代[[天武天皇]]の父親は第34代[[舒明天皇]]でないとする仮説([[佐々克明]]、[[小林恵子]]、[[大和岩雄]]ら)が提唱されており、その場合系祖先天皇あろうとない場合に限り、母親が第37代[[皇極天皇|斉明天皇]]であったことが皇位継承の条件であったことになるとの主張もあるが、これは仮説であり正式なものとはされていないうえ、父系祖先が天皇でなかったことが証明できないので成り立たない。しかしこの説によるならば、その系譜から第38代[[天智天皇]]らも男系ではなく女系の天皇と見なすこともできる可能性を見出すことができないわけではない。『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』にはさまざまな造作が加えられているとされるが、その問題の1つには天皇が男系で継承されてきたように記した点である。古代、氏族としての帰属は父系を原則としていたのは事実としても、生活習慣は基本的に母系制であり、家の継承が常に父系的に行われていたとは考えられないのではないだろうか、ということである(その後の時代も[[婿養子]]という制度は残されている)。
 
現在の日本においては、[[結婚]]した夫婦は民法上どちらかの姓を名乗り、その子もその姓を名乗ることとなっているが、現状でそのほとんどが男子(父)の姓を名乗っている。姓をもって家の継承と見なすならば国民においても男系継承が一般的であるといえるが、婿養子あるいは娘の子が跡を継ぐことも少ないながら存在し、かつての女系継承の残滓ともいえるものも見受けられる。