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全羅道差別は軍事独裁政権当時作られたもの。なお、訓要十条第8条は捏造の可能性が提起されている。
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[[File:后三国.jpg|thumb|300px|903年頃の後百済の版図(薄オレンジ)]]
'''後百済'''(ごくだら、[[900年]] - [[936年]])は、[[後三国時代]]、挙兵した[[甄萱]](キョンフォン)が、[[新羅]]によって滅ぼされた[[百済]]の復興を唱えて建国した国。
 
甄萱は、[[尚州]]の農民出身で、西南海で軍功をたてて頭角をあらわし、新羅朝廷により将軍に抜擢された。しかし、甄萱は、将軍の位に不満を持ち、根拠地の西南海で勢力を蓄え、挙兵を準備した。[[892年]]、農民一揆に乗じて挙兵し、武珍州([[全羅南道]][[光州広域市|光州]])、更に完山州([[全羅北道]][[全州市|全州]])を占領し、当初、「新羅西面都統治指揮兵馬制置、持節都督全武公等州軍事、行全州刺史兼御使中丞、上柱国、漢南郡開国公」と称した。[[900年]]、王となり、国号を百済と定めた。