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|選挙区 = 24選挙区([[オーバーバイエルン]])
|国旗2 =
|職名2 = [[ファイル:Flag of Thuringia.svg|25px]] [[テューリンゲン州]][[内務大臣]]兼[[教育大臣]]
|内閣2 = [[エルヴィン・バウム]]内閣
|就任日2 = [[1930年]][[1月23日]]
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|職名3 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]内務大臣
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|退任日4 = [[1945年]][[5月4日]]
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'''ヴィルヘルム・フリック'''('''Wilhelm Frick''', [[1877年]][[3月12日]] - [[1946年]][[10月16日]])は、[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)国会議員団長、[[テューリンゲン州]]内務大臣兼教育大臣、[[ドイツ国]]([[ヒトラー内閣]])務大臣、[[ベーメン・メーレン保護領]]総督を歴任した。[[全権委任法]]、[[ニュルンベルク法]]、[[強制的同一化]]政策の制定、[[ナチス式敬礼]]の義務化に大きく貢献した。[[ニュルンベルク裁判]]において死刑判決を受け、処刑された。
 
== 生涯 ==
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1924年からはミュンヘン警察本部の刑事課課長、1926年にはミュンヘン最高保健局首席高級官吏となる<ref name="エーベルレ、ウール524">マーザー、ウール、524頁</ref>。
 
1925年にナチ党が再建すると再入党し<ref name="エーベルレ、ウール524">マーザー、ウール、524頁</ref>、1928年にはナチ党の[[全国指導者]]として同党国会議員団の団長となる<ref name="LeMO"/>。
 
フリックは国会議員の力を使ってヒトラーがドイツ市民権を取得できるよう尽力した。当時のドイツでは公務員になれば自動的にドイツ市民権を取得することになっていたので<ref name="パーシコ下32">パーシコ、下巻32頁</ref>、ヒトラーを[[ヒルドブルクハウゼン]]という小さな町の治安関係の公務員に成れるよう手筈を整えた。しかしあまりにみすぼらしい役職にヒトラーが激怒して辞令を破り捨ててしまった。結局、1932年2月25日になってフリックは[[ブラウンシュヴァイク州]]のベルリン駐在州公使館付参事官という形式でヒトラーにドイツ国籍を与えることに成功した<ref name="阿部191">阿部、191頁</ref>。フリックはこの業績を最も誇りにしていた<ref name="パーシコ下32"/>。
 
=== テューリンゲン州内務大臣・教育大臣 ===
[[File:Erwin Baum.jpg|thumb|150px|エルヴィン・バウムテューリンゲン州首相]]
[[File:Bundesarchiv Bild 102-10543, Weimar, Aufmarsch der Nationalsozialisten.jpg|thumb|1930年10月、[[テューリンゲン州]]州都[[ヴァイマール]]。[[突撃隊]]の行進を見学するテューリンゲン州内務大臣フリック。右隣は[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]。]]
1929年12月8日の[[テューリンゲン州]]([[:de:Land Thüringen (1920–1952)|de]])議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した<ref name="阿部160">阿部、160頁</ref><ref name="プリダム112">プリダム、112頁</ref>。
 
その結果テューリンゲン州首相[[エルヴィン・バウム]]([[:de:Erwin Baum]])はナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内務大臣兼教育大臣に就任した([[:de:Baum-Frick-Regierung|de]])<ref name="ヴィストリヒ229">ヴィストリヒ、229頁</ref>。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内務大臣・教育大臣としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった<ref name="ヴィストリヒ229">ヴィストリヒ、229頁</ref>。
 
[[ヴァイマル共和政]]シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた<ref name="ヴィストリヒ229"/><ref name="阿部160"/>。1930年7月には[[イエナ大学]]にナチ党お抱えの人種学者[[ハンス・ギュンター]]の人種学の特別講座を設けさせた<ref name="ヴィストリヒ229"/><ref name="プリダム244">プリダム、244頁</ref>。反戦映画「[[西部戦線異状なし]]」は上映禁止処分となり、[[ジャズ]]も禁止された<ref name="ヴィストリヒ229"/>。州の芸術大学ではかつてヴァイマルにあった[[バウハウス]]色の一掃が図られ、退廃美術反対派の評論家シュルツェ=ナウムブルクが招聘されて近代美術の展示や近代音楽の演奏が禁止された<ref>関楠生 pp..30-33, ニコラス p.18</ref>。一方で[[反ユダヤ主義]]プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった<ref name="ヴィストリヒ229"/>。
 
1931年4月1日にテューリンゲン州内務大臣・教育大臣職を辞した<ref name="ヴィストリヒ229"/>。1932年から再びミュンヘン最高保健局所属となる<ref name="エーベルレ、ウール524">マーザー、ウール、524頁</ref>。
 
=== ドイツ国内務大臣 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-15348, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg|thumb|1933年1月30日、[[アドルフ・ヒトラー内閣]]成立。ヒトラーのすぐ後ろに立っている人物がヴィルヘルム・フリック内務大臣。]]
1933年1月30日、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より[[アドルフ・ヒトラー]]が[[ドイツの首相|首相]]に任命された。フリックは内務大臣として[[ヒトラー内閣]]に入閣した。成立当初のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相[[アドルフ・ヒトラー]]、無任所大臣[[ヘルマン・ゲーリング]]、そして内務大臣フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーは[[フランツ・フォン・パーペン]]内閣時代からの貴族閣僚とナチ党の連立相手である[[ドイツ国家人民党|国家人民党]]の[[アルフレート・フーゲンベルク]]、[[鉄兜団]]の[[フランツ・ゼルテ]]などによって占められていた。大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]の影響が大きく、権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人を取り囲む構図になっていた<ref name="成瀬201">成瀬・山田・木村、201頁</ref><ref name="阿部213">阿部、213頁</ref>。フリックは1943年までの10年間にわたって内務大臣を務め続けることになる。
 
政権初期に大きな権限を持っていたフリックはナチ党の[[強制的同一化]]政策を推し進めた。1933年3月23日には[[全権委任法]]に内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制が確立された<ref name="阿部226">阿部、226頁</ref><ref name="パーシコ下33">パーシコ、下巻33頁</ref>。さらに1933年12月1日には「党と国家の統一のための法律」に署名。これによりナチ党とドイツ政府は一体化され、ナチ党以外の政党の存続と樹立は禁止された<ref name="阿部258">阿部、258頁</ref><ref name="パーシコ下33"/>。
 
内務大臣としてのフリックはドイツの地方政府の自治権を奪い、[[中央集権]]体制を確立するのを急いだ。フリックは1933年3月に[[ハンブルク]]で「中央政府に服従しようとしない州政府があれば軍隊を差し向ける。」と演説した<ref name="プリダム347">プリダム、347頁</ref>。そして1933年3月9日から3月15日にかけて各州の自治権取り上げが行われた<ref name="阿部222">阿部、222頁</ref>。強い抵抗を見せた[[ハインリヒ・ヘルト]]の[[バイエルン州]]政府も3月9日には[[フランツ・フォン・エップ]]率いる[[突撃隊]]・[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]部隊によって制圧された<ref name="ヘーネ84">ヘーネ、84頁</ref>。
 
しかし[[プロイセン州]]だけはうまくいかなかった。プロイセン内務大臣を兼任していたゲーリングはプロイセン行政機関を自らの私的機関に仕立て上げてフリックのドイツ国内務省に吸収されるのを避けようと図ったためである<ref name="ヘーネ88">ヘーネ、88頁</ref>。フリックは1933年11月に警察権を完全に中央政府へ移行させることを企図したが、この時もゲーリングは[[ゲシュタポ]]をプロイセン内務省から独立させて自分の直接指揮下の機関にするなどして逃れようとした<ref name="ヘーネ97">ヘーネ、97頁</ref>。フリックは、ゲーリングへの対抗として、[[バイエルン州]]警察長官を務めていた[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]に接近し、1933年末から1934年初頭にかけてヒムラーにプロイセン州を除く全州警察権力をヒムラーに委任した<ref name="ヘーネ98">ヘーネ、98頁</ref>。ゲーリングは、この「フリック=ヒムラー連合」との決定的な対立は望まず、1934年3月末に行われたゲーリングとフリックの間で交渉の結果、プロイセン州行政組織はプロイセン州財務省を除いてすべてドイツ国内務省に吸収されることとなった<ref name="ヘーネ99">ヘーネ、99頁</ref>。ゲーリングの下でプロイセン内務省警察局長をしていた[[クルト・ダリューゲ]]はドイツ内務省に入省した<ref name="ヘーネ98"/>。1934年4月20日にはヒムラーがゲーリングから[[ゲシュタポ]]長官代理に任じられゲシュタポの実質的指揮権を獲得した<ref name="阿部269">阿部、269頁</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 121-911, Kitzbühel, Skimeisterschaft, Frick, Daluege, Hofer.jpg|thumb|left|1939年2月に[[キッツビュール]]で行われた警察のスキー選手権。内務大臣ヴィルヘルム・フリック(左)と秩序警察長官[[クルト・ダリューゲ]](中央)。]]
フリックはヒムラーを全面的に支持していたわけではなく、その強引な捜査手法について批判もしていた。1935年1月30日にフリックがヒムラーに宛てた書簡は「バイエルン州における"保護拘禁"数は他の州と比べても異常である」と苦言を呈している<ref name="ヘーネ180">ヘーネ、180頁</ref>。フリックはヒムラーより[[クルト・ダリューゲ]]を高く評価していた。ダリューゲをドイツ国内務省警察局長に任命していた。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた<ref name="ヘーネ196-197">ヘーネ、196-197頁</ref>。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた<ref name="ヘーネ197">ヘーネ、197頁</ref>。フリックも応じるしかなくなり、1936年6月17日にヒムラーを全ドイツ警察長官に任じた。フリックの推すダリューゲはヒムラーから[[秩序警察]]長官に任命され一応厚遇されたが、[[ゲシュタポ]]など権力の源泉となる政治警察はすべてハイドリヒの[[保安警察]]にまとめられたため、ダリューゲの権力は低下した<ref name="ヘーネ197"/>。ただし、フリックヒムラーの両者の実際の力関係はともかくとして、形式上、国家全域の統一基準の設置が内務大臣であるフリックの権限に属することは疑いの無いところであった<ref name="南249-250">南、249-250頁</ref>。
 
フリックは形式的な内務大臣である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律の起草にも携わっている。[[ニュルンベルク法]]をはじめとするユダヤ人を社会から排除する法律や、1934年6月の「[[長いナイフの夜]]」での粛清を正当化する法律を起草したのはフリックの内務省であった<ref name="ヴィストリヒ229"/><ref name="パーシコ上巻119">パーシコ、上巻119頁</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 121-0018, Sudetenland, Besuch Wilhelm Frick.jpg|thumb|1938年9月23日、[[ズデーテンラント]]で演説するフリック。]]
1938年1月25日、ゲシュタポは内務大臣の承認を経ずに国民を保護拘禁することを認められ、これによってフリックが内務大臣として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した<ref name="ドラリュ文庫285">ドラリュ、文庫版285頁</ref>。[[第二次世界大戦]]開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した<ref name="ヴィストリヒ229"/>。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内務大臣を解任された。後任の内務大臣に就任したのは、親衛隊全国指導者であり全ドイツ警察長官であるハインリヒ・ヒムラーであった<ref name="阿部601">阿部、601頁</ref>。ただし代わりにフリックは無任所大臣に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った<ref name="LeMO"/>。
 
[[第二次世界大戦]]開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した<ref name="ヴィストリヒ229"/>。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内相を解任された。全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが後任の内相に就任した<ref name="阿部601">阿部、601頁</ref>。ただし代わりにフリックは無任所相に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った<ref name="LeMO"/>。
 
=== ベーメン・メーレン保護領総督 ===
1943年8月24日、フリックは[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]の後任として[[ベーメン・メーレン保護領の統治者一覧|ベーメン・メーレン保護領総督]]に任命された<ref name="ヴィストリヒ229"/>。しかし、ここでも実権は同保護領担当国務相[[カール・ヘルマン・フランク]]が握っており、事実上の左遷措置をとられたフリックは相変わらず形式的な存在でしかなかった<ref name="ヴィストリヒ229"/>。
 
=== ニュルンベルク裁判 ===
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{{先代次代|[[ドイツ国]][[内務大臣]]|[[1933年]] - [[1943年]]|[[フランツ・ブラヒト]]|[[ハインリヒ・ヒムラー]]}}
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