「ジョン・マクダウェル」の版間の差分

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マクダウェルの[[論文]]で初めて[[活字]]となったものは古代哲学に関するものだ。初期の仕事として最も注目に値するものは、[[プラトン]]の『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』の翻訳・注釈である。[[1970年代]]には、自然言語に意味理論を与えるという[[ドナルド・デイヴィドソン]]のプロジェクトに精力的に携わり、{{仮リンク|ガレス・エヴァンズ|en|Gareth Evans (philosopher)}}と共に『真理と意味』という論文集を編んだ。また、死後出版となったエヴァンズの『指示の諸相』([[1982年]])の編集を行った。
 
マクダウェルは初期の著作において、デイヴィドソンの意味論的プログラムに携わると同時に、ある激しい論争にも参戦した。それは、意味の理論となるものの中核には真理条件の把握があるとする論者と、そうではなく主張可能性条件の把握こそが言語による理解に伴わねばならないものだという、[[マイケル・ダメット]]に代表される論者の間で起きた対立である。ダメットによれば、もし意味の理論たるものがその中心において話者の理解を表現すべきものであるならば、その理解とは、それを話者が把握していることを示しえねばならないようなものである。マクダウェルは、このダメットの見解、ならびにそれを発展させた{{仮リンク|クリスピン・ライト|en|Crispin Wright}}らに異議を唱える。マクダウェルによれば、彼らの主張は、ダメット自身も認めるように、意味の理論に関する[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]的な基準を満たさない。つまり、この主張は、他者の発話における心的表現の根拠となるものと、〔他者の発話にて〕表現された思考の間には非対称性があるという、疑わしい議論にもとづいているということだ。このマクダウェルの反論はまさに、彼が依拠している基本的な洞察を反映したものである。それは、我々の他者理解は、自らの実践の「内側」からなされる、という考えである。ライトとダメットは、行き過ぎた説明をしようとしており、言語活動を「外的」観点から理解しようとする[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|クワイン]]と同じ轍を踏んでしまっているとされる。
 
上記の論争と、それに並行して行われた、ウィトゲンシュタインによる規則順守にまつわる記述の解釈を巡る議論を通じて、マクダウェルの独特な思想は形成されていった。ウィトゲンシュタイン的な表現でその特徴を並べるならばこうだ。経験論抜きでの実在論の擁護、客観性を求めることに対する限界の強調、意味と心は、行為(特に、他者に対する言語的行為)において直接示されうるという考え、そして知覚経験の選言主義、これらである。