「ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキ」の版間の差分

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|紋章 = [[File:Alex_K_Korybut-Wyshnevetski.svg|center|65px]]
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'''イイェレーミヤ=ムィハーイロ'''('''ヤレーマ''')'''・コルィーブト・ヴィシュネヴェーツィクィイ'''({{Lang-uk|'''Ієре́мія-Миха́йло''' ('''Яре́ма''') '''Кори́бут Вишневе́цький'''}})、'''イェレーミ・ミハウ'''('''ヤレーマ''')'''・コルィーブト・ヴィシニョヴィェツキ'''<ref>[[イェジ・ルコフスキ]]/[[フベルト・ザヴァツキ]]著、[[河野肇]]訳『ポーランドの歴史』[[創土社]]、[[2007年]]では'''ヴィシニョヴィェツキ'''、[[ステファン・キェニェーヴィチ]]編、[[加藤一夫 (政治学者)|加藤一夫]]/[[水島孝生]]共訳『ポーランド史』[[恒文社]]、[[1986年]]では'''ヤレマ・ヴィシニョヴェツキ'''、[[伊東孝之]]/[[井内敏夫]]/[[中井和夫]]編『新版世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』[[山川出版社]]、[[1998年]]では'''ヴィシニョヴィエツキ'''と表記。</ref>({{Lang-pl|'''Jeremi Michał''' ('''Jarema''') '''Korybut Wiśniowiecki'''}}、[[1612年]][[8月17日]]<ref>{{Lang|pl|Ilona Czamańska ''Wiśniowieccy - monografia rodu'', [[ポズナン|Poznań]] 2007 ISBN 978-83-7177-229-0}} {{Pl_icon}}</ref> - [[1651年]][[8月20日]])は、{{仮リンク|ヴィシュニヴェーツィ|label=ヴィシュネヴェーツィ|uk|Вишнівець}}、[[ルブヌィ|ルブヌィー]]、{{仮リンク|ホロール|uk|Хорол_(місто)}}に知行地を持っていた[[ウクライナ]]の[[公]]である。[[ポーランド・リトアニア共和国]]に仕える[[ルーシ人|ルーシ]]・[[リトアニア大公国|リトアニア]]系の古い[[貴族]]の家系である{{仮リンク|ヴィシュネヴェーツィクィイ家|uk|Вишневецькі}}の家長で、当代きっての[[マグナート]]であった。{{仮リンク|コルィーブト|uk|Корибут}}は[[紋章]]の名称。軍事に秀で、[[1646年]]から[[ルーシ県]]長官を務めたほか、[[プシェムィシル|ペレームィシュリ]]、{{仮リンク|プシャスヌィシュ|label=プシャースヌィシュ|pl|Przasnysz}}、[[ノヴィ・タルク|ノーヴィ・タールク]]、[[ハーデャチ]]、[[カニウ|カーニウ]]の長官を歴任した。ウクライナの歴史家[[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]]によれば、彼はその時代においてウクライナ・ポーランドはおろか、全[[ヨーロッパ]]で一番の富裕な貴族であったという。今日の[[ポルタヴァ州]]と周辺州の一部に当たる広大な地域が、'''ヴィシュネヴェーツィクィイ領'''({{Lang|uk|'''Вишневе́ччина'''}})と呼ばれた。
 
息子の[[ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ]]はのちに[[ウクライナ人]]としてはじめて[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王(在位:1669年 - 1673年)となった。