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'''フランス共和国'''(フランスきょうわこく、{{lang-fr-short|République française}})、通称'''フランス'''は、[[西ヨーロッパ]]の領土並びに複数の[[フランスの海外県・海外領土|海外地域および領土]]から成る[[単一国家|単一]]主権国家である。[[フランス・メトロポリテーヌ]]は[[地中海]]から[[イギリス海峡]]および[[北海]]へ、[[ライン川]]から[[大西洋]]へと広がり、総面積は640,679km<sup>2</sup>、人口は6,660万人である。[[首都]]および最大都市の[[パリ]]は主要な文化および商業の中心地である。同国は[[半大統領制]]の[[共和制]]であり、[[w:Constitution of France|フランスの憲法]]制定により、人民主権を基に[[ライシテ|政教分離]]および民主制の国として建国された。
'''フランス共和国'''
 
[[鉄器時代]]、現在のフランスに相当する[[ガリア]]には[[ガリア人]]および[[ケルト人]]が居住していた。紀元前51年、ガリア人は[[ローマ帝国]]により西暦486年まで制圧された。ガリアを数百年間支配し、最終的には中世の[[フランス王国]]を建国した[[ゲルマン人|ゲルマン]]の[[フランク人]]の襲撃および移住に[[ガロ・ローマ文化|ガロ・ローマ人]]は直面した。1337年から1453年までの[[百年戦争]]での勝利はフランスの[[w:State-building|建国]]を強固にし、将来の中央集権型の[[絶対君主制]]への道を開き、[[中世後期]]以来、フランスはヨーロッパの大国であり続けた。[[w:French Renaissance|ルネサンス]]期、フランスは膨大な文化的発達を経験し、世界的規模の[[フランス植民地帝国|植民地帝国]]の第1段階を確立した。16世紀は、主として[[カトリック教会]]および[[プロテスタント]]の[[ユグノー]]間の[[ユグノー戦争|宗教上の内戦]]に特色付けられる。
♣♣♣♣♣♣この度に起きたフランス同時多発テロで犠牲になった方々、及びご家族に日本国民を代表して哀悼の意を捧げます。♣♣♣♣♣♣ 安倍晋三
 
[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]はヨーロッパにおける有力な文化力、政治力、軍事力を整えたが、18世紀末までに君主制は[[フランス革命]]において崩壊した。フランス革命の遺産は、[[人権]]に関する世界最古の文書である[[人間と市民の権利の宣言]]であり、今日に至るまで国の理想を表現している。同国は史上最古の[[フランス第一共和政|共和国]]の1つとして統治されたが、後にヨーロッパ情勢を支配し、西洋文化への影響力を長らく有した[[ナポレオン・ボナパルト]]により、[[フランス第一帝政|帝国]]の建国が宣言された。ナポレオンの降伏後、激動の一連の政府をフランスは耐え抜き、[[フランス復古王政|絶対君主制の復活]]、1830年に取って代わった[[7月王政|立憲君主制]]、一時的な[[フランス第二共和政|第二共和政]]、[[フランス第二帝政|第二帝政]]、1870年に建国されたより持続的な[[フランス第三共和政|第三共和政]]がこれに該当する。
 
19世紀および20世紀初頭、[[フランス植民地帝国|世界第2位の植民地帝国]]を有し、フランスの植民地帝国は世界的な重要性の極みに達した<ref>{{cite book|editor=Hargreaves, Alan G.|title=Memory, Empire, and Postcolonialism: Legacies of French Colonialism|publisher=Lexington Books|year=2005|isbn=9780739108215|page=1|url=http://books.google.com/books?id=UX8aeX_Lbi4C&pg=PA1}}</ref>。[[第一次世界大戦]]において、フランスは[[三国協商]]の一大国としてドイツおよび[[中央同盟国]]と戦った。[[第二次世界大戦]]では[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一国であったが、1940年に[[ナチス・ドイツ]]により[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領された]]。1944年の[[自由フランス|解放]]後、[[フランス第四共和政|第四共和政]]が設立されたが、[[アルジェリア戦争]]の過程で解散し、[[シャルル・ド・ゴール]]率いる[[フランス第五共和政|第五共和政]]に取って代わられた。1960年代、[[脱植民地化]]によりフランス植民地帝国の大部分が独立した。[[フランスの歴史|長い歴史]]を通じ、フランスは多くの影響力の大きい芸術家、思想家、科学者を生み出し、依然として卓越した世界の文化の中心地であり続けている。[[フランスの世界遺産|世界第4位]]の[[世界遺産|世界文化遺産]]数を有し、世界最多の年間約8,300万人の外国からの観光客を迎え入れている<ref name="tourism.stat">{{cite web |publisher= United Nations World Tourism Organization |url=http://dtxtq4w60xqpw.cloudfront.net/sites/all/files/pdf/unwto_highlights13_en_lr.pdf |title=UNWTO Highlights |accessdate=11 September 2013|format=PDF}}{{dead link|date=January 2014}}</ref>。
 
フランスはヨーロッパおよび世界における重要な[[フランス文化|文化的]]、[[フランスの経済|経済的]]、[[フランス軍|軍事的]]、[[w:Foreign relations of France|政治的]]影響力を有する[[列強]]である<ref>{{cite web|url=http://www.webcitation.org/5kwqEr8pe |title=Great Powers – Encarta. MSN. 2008 |publisher=Webcitation.org |date= |accessdate=22 June 2012}}</ref>。[[国内総生産|名目GDP]]で[[国の国内総生産順リスト (為替レート)|世界第5位]]および[[購買力平価説|購買力平価]]で[[国の国内総生産順リスト (購買力平価)|世界第8位]]の[[先進国]]である<ref name="data.worldbank.org">{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.PP.CD?order=wbapi_data_value_2012+wbapi_data_value+wbapi_data_value-last&sort=desc |title=GDP, PPP (current international $) &#124; Data &#124; Table |publisher=World Bank |date=2 September 1943 |accessdate=13 January 2014}}</ref>。家計資産の総計の観点から、フランスはヨーロッパで最高かつ世界で第4位の経済大国である<ref>{{cite web|url=http://piketty.pse.ens.fr/fichiers/enseig/ecoineg/EcoIneg_fichiers/DaviesShorrocks2010(CSGlobalWealthReport).pdf|title=Global Wealth Report|publisher=Credit Suisse|accessdate=27 October 2014|quote="In euro and USD terms, the total wealth of French households is very sizeable. Although it has just 1% of the world's adults, France ranks fourth among nations in aggregate household wealth – behind China and just ahead of Germany. Europe as a whole accounts for 35% of the individuals in the global top 1%, but France itself contributes a quarter of the European contingent.}}</ref>同国は世界第2位の[[排他的経済水域]] (EEZ) をも有し、その規模は11,035,000 km<sup>2</sup>に及ぶ。<ref>Centre national de documentation pédagogique, "2011, ANNÉE DES OUTRE-MER" [http://www.cndp.fr/outre-mer/exposition/affiche/article/n-5-zee-zones-economiques-exclusives/]</ref>。フランス国民は高い[[生活水準]]を享受し、同国は[[教育指数|教育]]、[[フランスの医療|医療]]、[[国の平均寿命順リスト|平均寿命]]、人権、[[人間開発指数]]の[[w:International rankings of France|国際ランキング]]において上位に位置する<ref>{{cite web|url=http://www.who.int/whr/2000/media_centre/press_release/en/ |title=World Health Organization Assesses the World's Health Systems |publisher=World Health Organization |date=8 December 2010 |accessdate=16 July 2011}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2006/WPP2006_Highlights_rev.pdf |title=World Population Prospects – The 2006 Revision |format=PDF |accessdate=27 April 2010|publisher=UN}}</ref>。フランスは[[国際連合]]の原加盟国であり、[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、[[G7]]、[[北大西洋条約機構]] (NATO)、[[経済協力開発機構]] (OECD)、[[世界貿易機関]] (WTO)、[[フランコフォニー国際機関]]がこれに該当する。また、[[欧州連合加盟国|欧州連合原加盟国かつ指導国]]でもある。
 
== 国名 ==
正式名称は、{{読み仮名|{{lang|fr|'''République française'''}}|レピュブリク・フランセーズ}}。通称、''{{lang|fr|France}}''。 略称、'''FR'''。
 
日本語の表記は、'''フランス共和国'''。通称、'''フランス'''。また、漢字による当て字で、'''仏蘭西'''(旧字体:'''佛蘭西''')、'''法蘭西'''(中国語表記由来)などと表記することもあり、'''仏'''('''佛''')と略されることが多い。アメリカに渡るのを「渡米」と呼ぶのに対して、フランスに渡ることを「渡仏」と呼ぶ。
 
国名の {{lang|fr|France}} は、11世紀の『[[ローランの歌]]』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている {{lang|fr|France}} は[[フランク王国]]のことである。一方で987年に始まるフランス王国<ref>{{lang-fr-short|le Royaume de France}}</ref> に、{{lang|fr|France}} という名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであって、その時代に {{lang|fr|France}} という国名の存在を認定できるわけではない。また中世の[[フランス王]]は {{lang|fr|REX FRANCUS}} と署名している。{{lang|fr|France}} は中世ヨーロッパに存在した[[フランク王国]]に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている([[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルイ1世]]と[[ルイ16世]]を参照)。作家の[[佐藤賢一]]は、[[ヴェルダン条約]]でフランク王国が[[西フランク王国|西フランク]]、[[中フランク王国|中フランク]]、[[東フランク王国|東フランク]]に3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは[[神聖ローマ皇帝]]を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している<ref>佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』(2009年、講談社、講談社現代新書)</ref>。[[ドイツ語]]では、直訳すればフランク王国となる {{読み仮名|{{lang|de|Frankreich}}|フランクライヒ}}を未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は {{読み仮名|{{lang|de|Frankenreich}}|フランケンライヒ}}と呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている。
 
== 歴史 ==
{{main|フランスの歴史}}
=== ローマの支配から王政時代 ===
[[ファイル:Siege-alesia-vercingetorix-jules-cesar.jpg|thumb|left|『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』]]
[[ファイル:Chlodwigs taufe.jpg|thumb|聖[[レミギウス]]から[[洗礼]]を受ける[[クロヴィス1世|クローヴィス]]]]
[[ファイル:Lenepveu, Jeanne d'Arc au siège d'Orléans.jpg|thumb|left|[[ジャンヌ・ダルク]]]]
[[ファイル:Richelieu La Rochelle 1881 Henri Motte 1847 1922.jpg|thumb|220px|[[リシュリュー]]]]
[[ファイル:Louis XIV of France.jpg|thumb|left|「太陽王」[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]]]
現在のフランスに相当する地域は、[[紀元前1世紀]]までは[[マッシリア]](現マルセイユ)などの[[地中海]]沿岸の[[ギリシャ人]]の植民都市を除くと、[[ケルト人]]が住む土地であり、[[古代ローマ]]人はこの地を[[ガリア]](ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人は[[ドルイド]]を軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的な統一は存在しなかった。[[紀元前219年]]に始まった[[第二次ポエニ戦争]]では、[[カルタゴ]]帝国の将軍[[ハンニバル・バルカ|ハンニバル]]が[[南フランス]]を抜けて[[共和政ローマ|ローマ共和国]]の本拠地だった[[イタリア半島]]へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。
 
その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方の[[ガリア・ナルボネンシス]]が属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]は[[紀元前58年]]にゴール北部に侵攻した([[ガリア戦争]])。ゴールの諸部族をまとめた[[ウェルキンゲトリクス|ヴェルサンジェトリクス]]は果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの[[属州]]とした。ゴールは幾つかの[[属州]]に分割され、[[パックス・ロマーナ|ローマの平和]]の下でケルト人のラテン化が進み、[[ガロ・ローマ文化]]が成立した。360年にゴール北部の都市[[ルテティア]]は[[パリ]]と改名された。[[5世紀]]になると[[ゲルマン人|ゲルマン]]系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。
 
[[476年]]に[[西ローマ帝国]]が滅びるとゲルマン人の一部族である[[フランク族]]の[[クロヴィス1世|クローヴィス]]が建国した[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]が勢力を伸ばし始めた。[[508年]]にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族は[[キリスト教]]とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後は[[ピピン3世]]が[[カロリング朝]]を打ち立て、[[カール・マルテル]]は732年に[[イベリア半島]]から進出してきた[[イスラーム]]勢力の[[ウマイヤ朝]]を[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で破り、イスラーム勢力の[[西ヨーロッパ]]方面への拡大を頓挫させた。[[シャルルマーニュ]](カール大帝)はイスラーム勢力や[[アヴァール族]]を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、[[イベリア半島]]北部から[[イタリア半島]]北部・[[パンノニア平原]](現在の[[ハンガリー]]周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、[[カロリング・ルネサンス]]が興った。800年にシャルルマーニュは[[西ローマ帝国]]皇帝の称号を[[ローマ教皇]]から与えられた。
 
シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、[[イタリア]]、[[ドイツ]]の基礎となった。また、この時期に現代に続く[[フランス語]]([[古フランス語]])の形成が始まった。987年に[[西フランク王国]]が断絶すると[[パリ伯]][[ユーグ・カペー]]が[[フランス王]]に選出され、[[カペー朝]]の下で[[フランス王国]]が成立した。
 
彼の子孫の[[カペー朝]]、その後の[[ヴァロワ朝]]、[[ブルボン家|ブルボン朝]]は戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。[[1209年]]に[[アルビジョア十字軍]]が開始され、異端とされた[[オクシタニア]](現在の南フランス)の[[カタリ派]]を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,897752-2,00.html Massacre of the Pure]. Time. April 28, 1961.</ref>。[[ペスト|黒死病]]の大流行が起こる直前の[[1337年]]からフランスは[[イングランド]]との[[百年戦争]]([[1337年]] - [[1453年]])を戦っている<ref>Don O'Reilly. "[http://www.historynet.com/magazines/military_history/3031536.html Hundred Years' War: Joan of Arc and the Siege of Orléans]". ''TheHistoryNet.com''.</ref>。フランスは幾度か大敗を喫して危機に陥ったが、[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍などもあって最終的にはイングランド勢力を大陸から駆逐でき、またこの戦争を通じて王権が強化された。[[1494年]]、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が[[イタリア戦争]]([[1494年]] - [[1559年]])を開始してイタリアを弱体化した結果、[[教皇派と皇帝派]]の争いは、[[ナポレオン戦争]]後に[[オーストリア帝国]]([[神聖ローマ帝国]]の後継国家)の影響下から抜け出す[[イタリア統一運動]]に姿を変え、やがて[[第一次世界大戦]]を誘発する[[オーストリア=ハンガリー帝国]]を誕生させた。
 
[[1534年]]、[[ジャック・カルティエ]]が[[ガスペ半島]]に十字架を建て、[[ヌーベルフランス]]を宣言。[[16世紀]]には[[カトリック教会|カトリック]]・[[プロテスタント]]の対立([[宗教改革#フランスの宗教改革|フランスの宗教改革]])から大規模な内戦[[ユグノー戦争]]([[1562年]] - [[1598年]])が起こっている。[[1556年]]にユグノーが{{仮リンク|南極植民地 (フランス領)|en|France Antarctique|label=南極フランス}}(現[[ブラジル]]の[[グアナバラ湾]]周辺)を建設。1608年にケベック([[:fr:Province de Québec (1763-1791)|Province de Québec]])を建設。1612年に{{仮リンク|赤道植民地 (フランス領)|en|Equinoctial France|label=赤道フランス}}(現[[ブラジル]]の[[マラニョン州]]に[[サン・ルイス (マラニョン州)|サン・ルイス]]周辺)を建設。南極フランスも赤道フランスもポルトガルに併合された。[[17世紀]]に[[三十年戦争]]の[[講和条約]]で[[ヴェストファーレン条約]]が締結され、宗教戦争に終止符が打たれた。
 
王朝は[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の時期に最盛期を迎えている。この時期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治、経済、文化に絶大な影響力を持っていた。フランス語は外交の舞台での共通語となっていた。[[1673年]]に[[フランス東インド会社]]が[[ポンディシェリ]]を取得。[[1685年]]には{{仮リンク|コード・ノアール|fr|Code noir|en|Code Noir|label=黒人法}}を制定した。ポンディシェリを巡ってイギリス東インド会社との間で[[カーナティック戦争]]([[1746年]] - [[1763年]])が勃発、敗北した結果、インドではイギリスが主導権を握る。フランスは[[アメリカ大陸|アメリカ]]、[[アフリカ]]、[[アジア]]に広大な海外領土を獲得していたが、[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]で[[北米植民地戦争]]の[[フレンチ・インディアン戦争]]が終結し、[[ヌーベルフランス]]は[[イギリス]]による[[アメリカ合衆国の植民地時代#1776年におけるイギリスの統治体制|植民地時代]]に移った。[[1769年]]、[[フランス東インド会社]]から{{仮リンク|フランス領インド|fr|Inde française|en|French India}}が成立。特に重要だった[[カリブ海]]の植民地の[[サン=ドマング]]においては、[[奴隷貿易]]によって導入された[[黒人]][[奴隷]]を酷使した[[サトウキビ]]や[[コーヒー]]の[[プランテーション]]が築かれ、莫大な歳入をフランスにもたらした。[[パリ外国宣教会]]の[[ピニョー・ド・ベーヌ]]は、[[嘉隆帝|阮福暎]]に働きかけて、フランスの支援のもとに[[西山朝]]と戦わせた({{仮リンク|フランスのグエン・アインへの支援|vi|Quan hệ giữa Nguyễn Ánh và người Pháp|en|French assistance to Nguyễn Ánh}})。[[18世紀]]にはフランスの知識人の中から多くの[[啓蒙思想]]が生まれ、科学的な大発見がなされている。{{仮リンク|市民国家主義|en|Civic nationalism}}はフランス革命の基本原則となり、[[1789年]]の『[[人間と市民の権利の宣言]]』として結実した。
 
=== 共和制と帝政 ===
[[ファイル:Jacques-Louis_David_-_Napoleon_Crossing_the_Alps_-_Kunsthistorisches_Museum.jpg|thumb|アルプスを越えるナポレオン[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]画]]
[[1789年]]に[[フランス革命]]が起きて王政は倒れ、[[1791年]]に[[ハイチ革命]]が勃発。[[1793年]]に[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]と[[マリー・アントワネット]]が処刑され、同時に数千人ものフランス市民が[[恐怖政治]]の犠牲となっている<ref>[http://www.nytimes.com/1989/07/09/travel/vive-la-contre-revolution.html?sec=travel Vive la Contre-Revolution!]. The New York Times. July 9, 1989.</ref>。政治的混乱ののち、[[1799年]]に[[ブリュメールのクーデター]]によって[[ナポレオン・ボナパルト]]が共和国の権力を握って[[第1コンスル|第1統領]]となり、やがて皇帝に即位して[[フランス第一帝政|第一帝政]]([[1804年]]-[[1814年]])を開いた。[[ナポレオン戦争]]と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となっている<ref>[http://www.questia.com/googleScholar.qst?docId=5001329960 Napoleon and German identity]. Magazine article by Tim Blanning; History Today, Vol. 48, April 1998.</ref>。
[[1803年]]に[[フランス領ルイジアナ]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[ルイジアナ買収|売却]]。[[1804年]]の[[ハイチ革命]]が終結し、[[ハイチ]]が独立する。
 
[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|thumb|left|『[[民衆を導く自由の女神]]』[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]画]]
[[1815年]]にナポレオンが[[ワーテルローの戦い]]に敗れた後、フランスは[[フランス復古王政|王政復古]]したが、王の権力は憲法に制約されていた。[[1830年]]、[[7月革命]]によって[[立憲君主制]]による[[7月王政]]が立てられた。[[1830年]]に{{仮リンク|フランス領北アフリカ|fr|Afrique française du Nord|en|French North Africa}}([[アルジェリア]]、[[チュニジア]]、[[モロッコ]])が成立。この王政は[[1848年]]の[[1848年のフランス革命|2月革命]]によって終わり、[[フランス第二共和政|第二共和政]]に移行するが、{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}の1年後の[[1852年]][[12月2日]]にルイ・ナポレオン([[ナポレオン3世]]、ナポレオン・ボナパルトの甥)が[[フランス第二帝政|第二帝政]]を開く。ナポレオン3世は[[ボナパルティズム]]的手法<ref>[[カール・マルクス]]の[[1852年]]の著書『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』で[[ボナパルティズム]]という用語が定着した。</ref>で国内を固め、[[中国]]、[[インドシナ半島]]、[[メキシコ]]や[[日本]]などに積極的に出兵したが([[アロー戦争]]、{{仮リンク|コーチシナ戦争|en|Cochinchina Campaign}}、[[メキシコ出兵]]、[[下関戦争]])、[[1870年]]の[[普仏戦争]]敗北の際に退位、[[パリ・コミューン]]の騒乱を経て[[フランス第三共和政|第三共和政]]が成立した。
 
[[1873年]]、[[アルフォンス・ドーデ]]の『[[最後の授業]]』を含む短編集が出版され、フランス語の愛国教育が始まったことが知られている。[[アルザス・ロレーヌ]]地方での使用言語は[[アルザス語]]、{{仮リンク|ロートリンゲンフランケン語|de|Lothringisch (Fränkisch)|fr|Francique lorrain|en|Lorraine Franconian|label=ロートリンゲン方言}}、{{仮リンク|ロレーヌ語|fr|Lorrain|de|Lothringisch (Romanisch)|en|Lorrain dialect|label=ロレーヌ方言}}など多様であるが、そういった事情は一切隠蔽した反独プロパガンダが行なわれた。
19世紀には、国家観について、[[ナポレオン戦争]]期の[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]『{{仮リンク|ドイツ国民に告ぐ|de|Reden an die deutsche Nation|en|Addresses to the German Nation}}』([[1808年]])と[[普仏戦争]]後の[[エルネスト・ルナン]]『{{仮リンク|国民とは何か?|fr|Qu'est-ce qu'une nation ?|en|What is a Nation?}}』([[1882年]])の対比などから{{仮リンク|市民国家主義|en|Civic nationalism}}と[[民族主義]]との相違が明確にされていたが、欧州では高まる民族主義が世界大戦へと向かわせた。また、一方でルナンは、『[[知的道徳的改革]]』({{lang-fr-short|La Réforme intellectuelle et morale}})において、フランスの植民地主義による侵略を正当化している。
 
{{仮リンク|トンキン戦争|en|Tonkin Campaign}}([[1882年]])と[[清仏戦争]]([[1884年]] - [[1885年]])に勝利し、[[フランス領インドシナ]]([[1887年]] - [[1954年]])が成立。[[ブーランジェ将軍事件]]([[1886年]] - [[1889年]])。[[1893年]]、[[タイ王国|シャム]]と{{仮リンク|仏泰戦争|en|Franco-Siamese War}}。普仏戦争後の[[アルザス・ロレーヌ]]の喪失と、50億フランという高額な賠償金を発端とする反独運動から[[ドレフュス事件]]([[1894年]])が勃発。[[アフリカ分割]]の時代には、[[1895年]]に[[フランス領西アフリカ]]([[モーリタニア]]、[[セネガル]]、[[マリ共和国]]、[[ギニア]]、[[コートジボワール]]、[[ニジェール]]、[[ブルキナファソ]]、[[ベナン]])が成立。[[1894年]]に[[露仏同盟]]を締結し、フランス資本が[[シベリア鉄道]]に出資したが、[[ファショダ事件]]([[1898年]])や[[日露戦争]]([[1904年]] - [[1905年]])で[[グレートゲーム]]の成り行きを見た後、[[1904年]]に[[英仏協商]]([[三国協商]])を締結、フランスが[[モロッコ]]進出するとドイツが反発して、[[1905年]]に[[第一次モロッコ事件]]が起こった。[[1910年]]に[[フランス領赤道アフリカ]]([[ガボン]]、[[コンゴ共和国]]、[[中央アフリカ共和国]]、[[チャド]])が成立。[[1913年]]、[[アルザス地域圏|アルザス]]・[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]地方(エルザス州・ロートリンゲン州)で[[ツァーベルン事件]]。
 
=== 世界大戦と植民地戦争 ===
[[ファイル:Georges Clemenceau 1.jpg|thumb|[[ジョルジュ・クレマンソー]]]]
[[ファイル:Philippe Pétain (en civil, autour de 1930).jpg|thumb|[[フィリップ・ペタン]]]]
[[ファイル:De Gaulle-OWI.jpg|thumb|[[シャルル・ド・ゴール]]]]
フランスは[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7199127.stm France's oldest WWI veteran dies]. BBC News. January 20, 2008.</ref>、この時は領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。
 
戦間期には[[人民戦線]]政府によって様々な改革が試行された。[[1916年]][[5月16日]]にイギリス、フランス、ロシアの間でオスマン帝国領の分割を約した秘密協定「[[サイクス・ピコ協定]]」を締結。[[1917年]]に[[オスマン帝国]]を占領して[[:en:Occupied Enemy Territory Administration|OETA]]([[1917年]] - [[1920年]])が成立。[[1917年]]10月、[[ロシア革命]]中の[[ボリシェヴィキ]]がサイクス・ピコ協定を暴露。[[1918年]][[11月8日]]、[[ウッドロウ・ウィルソン]]米大統領の支援で[[アルザス=ロレーヌ共和国]]([[:fr:Novembre 1918 en Alsace-Lorraine|fr]])が出来たが、11日後にフランス軍の占領で解体、フランス領となる。[[1919年]]1月に[[パリ講和会議]]で[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]がアラブ地域の独立をフランスに求めたが拒否。[[1920年]][[3月8日]]に[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]が{{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria}}として独立すると、{{仮リンク|サン・レモ会議|en|San Remo conference}}([[1920年]][[4月19日]] - [[4月26日]])でフランスとイギリスの委任統治範囲を決定。[[7月24日]]に{{仮リンク|フランス・シリア戦争|en|Franco–Syrian War}}が始まり、フランスが占領して[[フランス委任統治領シリア]]とした。[[1920年]][[8月10日]]、[[オスマン帝国]]と[[セーヴル条約]]を締結。[[キリキア]]をめぐり[[ソ連]]の支援を受ける[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|アタテュルク]]率いる{{仮リンク|アンカラ政府|en|Government of the Grand National Assembly}}と{{仮リンク|フランス・トルコ戦争|en|Franco-Turkish War|label=トルコ・フランス戦争}}([[1920年]]5月 - 10月)を始めるも、トルコが勝利。
 
フランスは17世紀以降、1960年代まで広大な海外[[植民地]]を有しており、その[[フランス植民地帝国|植民地帝国]]は[[イギリス帝国|大英帝国]]に次ぐ規模だった。[[1919年]]から[[1939年]]の最大時にはフランスは12,347,000km²(フランス本国を含む)の領土に広がり、世界の陸地の8.6%を占めていた。
 
第二次世界大戦では[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|電撃戦]]に敗れた。第三共和政は崩壊し、[[フィリップ・ペタン]]を国家元首とする[[ヴィシー政権]]が成立した。[[フランス・メトロポリテーヌ|フランス本国]]はドイツによって北部、後に全土が占領された。[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]([[1940年]][[11月23日]] - [[1941年]][[5月8日]])。一方で[[シャルル・ド・ゴール]]率いる[[自由フランス]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]につき、苦しい戦いを続けた。1944年に[[フランス共和国臨時政府]]が帰還し、全土を奪還した。
 
戦後、[[フランス第四共和政]]が成立し、経済は再建されたものの[[列強]]国としての地位は崩れかけていた。
[[1946年]]、[[フランス委任統治領シリア]]が{{仮リンク|シリア共和国 (1930年–1958年)|en|Syrian Republic (1930–1958)|label=シリア共和国}}としてフランスより独立。フランスは植民地体制を守ろうとしたが、[[脱植民地化]]時代の潮流には逆らえず、すぐに苦境に陥ることになる。[[フランス領インドシナ]]の支配を回復しようとして、抵抗する[[ベトミン]]との間で[[第一次インドシナ戦争]]が勃発し、[[1954年]]に[[ディエンビエンフーの戦い]](3月 - 5月)でベトミンに大敗を喫してインドシナから撤退している。そのわずか数ヶ月後の[[11月1日]]に{{仮リンク|フランス領インド|en|French India}}をインドに返還して[[ポンディシェリ連邦直轄領]]が誕生したが、その同日に今度はより厳しい[[アルジェリア戦争]]に突入する羽目になる。[[フランス領アルジェリア|アルジェリア植民地]]の維持の是非と、[[ピエ・ノワール|植民者]]の帰還<ref>[http://www.nytimes.com/2009/03/05/arts/design/05abroad.html?_r=1 In France, a War of Memories Over Memories of War]. The New York Times. March 4, 2009.</ref>を巡って国論は割れ、内戦になりかけていた。1956年には[[モロッコ]]と[[チュニジア]]が独立を達成していたが、[[フランス領インドシナ|インドシナ]]や[[マグリブ]]のみならず、[[ブラックアフリカ]]の植民地においても独立運動は進んだ。{{仮リンク|イフニ戦争|en|Ifni War}}([[1957年]] - [[1958年]][[6月30日]])では[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]体制のスペインを支持。
 
弱体で不安定な第四共和政は、[[1958年]][[6月1日]]にド・ゴールの強力なリーダーシップに後を委ねることとなった。[[1959年]][[1月8日]]に強力な[[共和国大統領 (フランス)|大統領]]権限を含んだ[[フランス第五共和政|第五共和政]]が成立する。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは国内の統一を維持し、戦争終結へ踏み出した。[[1958年]][[10月2日]]の[[ギニア]]独立を嚆矢として、[[アフリカの年]]こと[[1960年]]にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の[[冷戦]]構造の中でフランスは[[西側諸国|自由主義陣営]](西側)に属し、[[北大西洋条約機構]]の原加盟国でもあるが、ド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線を取り、米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢は[[ド・ゴール主義]]と呼ばれ、[[核兵器]]保有もその一環である。アルジェリア戦争中の[[1960年]]には[[トゥアレグ]]が居住する[[サハラ砂漠]]で[[核実験]]を強行したが、[[1962年]]に和平交渉を妥結し、[[アルジェリア]]は独立した。
 
=== 現在 ===
[[1973年]]の[[石油危機]]以降、フランスは深刻な経済危機と低成長を経験しており、政権の交代が繰り返された。その為、[[1986年]] - [[1988年]]、[[1993年]] - [[1995年]]、[[1997年]] - [[2002年]]には[[コアビタシオン]](所属党派の異なる大統領と首相になってしまう、保革共存政権)が起こっている。
 
1950年代からの[[ドイツ]]との和解と協力によって、両国は[[欧州経済共同体]](EEC)や[[1999年]]1月の[[ユーロ]]導入を含む[[欧州統合]]に中心的役割を果たして来た。フランスは[[欧州連合]](EU)の主導国の一つであり、ヨーロッパの政治的統合を強く支持しているが[[2005年]]の[[欧州憲法]]批准は[[国民投票]]で拒否されてしまった。[[2008年]]2月にこれを継承する[[リスボン条約]]が議会の承認を得ている。
 
== 政治 ==
{{main|フランス共和国憲法|フランス政府|フランス第五共和政|フランス法|大陸法}}
{{main|:en:Politics of France|:en:Government of France}}
[[ファイル:Declaration of Human Rights.jpg|thumb|left|150px|[[フランス人権宣言]]]]
 
現在のフランスは、[[直接選挙]]で選ばれる[[フランスの大統領|大統領]](任期5年、2002年以前は7年)に首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれている。
 
[[2012年]][[5月6日]]([[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]])に行われた[[2012年フランス大統領選挙|大統領選挙]]では[[社会党 (フランス)|社会党]]の[[フランソワ・オランド]]が現職の[[ニコラ・サルコジ]]を破って当選し、同15日に第7代大統領に就任した。
{{See also|フランスの大統領}}
 
また、大統領が任命する[[フランスの首相|首相]]は、大統領にも議会にも責任を負っており、共に行政権を持つ([[半大統領制]])。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態を[[コアビタシオン]]と呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが両者が対立し政権が不安定になることもある。
{{See also|フランスの首相|コアビタシオン}}
 
議会は[[二院制]]を採用し、[[上院]]に当たる[[元老院 (フランス)|元老院]]と、[[下院]]にあたる[[フランス国民議会]]がある。元老院は[[間接選挙]]で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は[[直接選挙]]で選出され、投票に際して[[小選挙区制]]と[[二回投票制]]が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。
{{See also|国会 (フランス)}}
 
主要[[政党]]としては、[[国民戦線 (フランス)|国民戦線]](極右・移民排斥)、[[国民運動連合]](保守・右派)、[[フランス民主連合]](中道・若干右寄り)、[[社会党 (フランス)|社会党]](中道左派・社会民主主義)、[[フランス共産党]](左派)がある。また、以下は議席を持たないが、[[反資本主義新党]](極左)、[[労働者の闘争党|労働者の闘争]](極左・トロツキスト政党)も存在する。
{{See also|フランスの政党}}
 
特徴的な社会風土としてよく挙げられる点は、強烈な[[中央集権]]社会、[[エリート]]主義社会、および[[役人]]社会([[官僚主義]])であることなどである。労働人口に対する[[公務員]]の比率は21.6%に達し<ref>関谷一彦、細身和志、山上浩嗣編著『はじめて学ぶフランス──関西学院大学講義「総合コースフランス研究」より』、関西学院大学出版会、2004年10月。 p.54</ref>、世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造自体を指して、しばしば批判的な意味を含めたうえで『官僚天国』『役人王国』などと形容されることがある<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090317/139456/ フランスの行革担当大臣から生の声を聞く 公務員の数は520万人、「公務員が多くて行革が大変だ]([[日経BP]] 2009年03月17日)</ref>。
 
== 警察 ==
{{main|フランスの警察}}
* [[フランス国家警察]]
** [[パリ警視庁]]
** [[フランス国家警察介入部隊]]
** [[フランス国家警察特別介入部隊]]
* [[フランス国家憲兵隊]]
** [[フランス共和国保安機動隊]]
** [[フランス共和国親衛隊]]
** [[フランス国家憲兵隊治安介入部隊]]
 
== 情報機関 ==
* [[フランス対外治安総局|対外治安総局 (DGSE)]](Direction Générale de la Sécurité Extérieure) -SDECE―防諜・外国資料局より改称。
* [[フランス軍事偵察局|軍事偵察局 (DRM)]](Direction du Renseignement Militaire) - 軍事偵察局 (国防省に属する機関)
* [[国内情報中央局|国内情報中央局(DCRT)]] (Direction centrale du renseignement intérieur;)(内務省に属する機関)
 
== 軍事 ==
[[ファイル:Drapeaux 1RE et 2REI Paris 2003.jpg|thumb|left|180px|[[フランス外人部隊]]]]
{{main|フランス軍|フランスの大量破壊兵器}}
 
フランスの国防政策は[[1959年]]に[[シャルル・ド・ゴール]]政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、[[将官]]の任免、総動員令や[[戒厳令]]の宣布などの意思決定機関として機能する。[[フランス革命]]からの[[徴兵制]]を廃止して[[志願制]]を採用した。2011年の軍事支出は625億ドルと標準的な軍事費を維持している。
 
[[フランス軍]]は[[フランス陸軍|陸軍]]、[[フランス空軍|空軍]]、[[フランス海軍|海軍]]および[[フランス国家憲兵隊|憲兵]]からなり、[[2002年]]の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち[[太平洋]]地区の海外県([[植民地]])に約2万人、[[アフリカ]]に6,500人、[[国際連合]]など国際組織の指揮下に9千人がいる。また[[核兵器]]を保有しており、[[フランス海軍|海軍]]の弾道[[ミサイル]]搭載[[原子力潜水艦]]により運用される。現在も[[フランス外人部隊]]8個[[連隊]]を保有する。南仏[[オーバニュ]]に司令部を置き、南仏各地も駐屯、[[コルシカ]]や[[ポリネシア]]にも一部が駐屯する。[[2002年]]12月から[[西アフリカ]]の[[コートジボワール]]に外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。
 
2013年に開始された[[セルヴァル作戦|マリ共和国への軍事介入]]において、進展の遅れから軍の[[兵站]]が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている<ref>[http://jp.wsj.com/articles/SB10001424127887324829004578271323832699186 フランス軍がアフリカでの作戦に苦戦しているわけ] [[2013年]][[1月29日]] [[ウォールストリートジャーナル]]</ref>。[[徴兵制]]廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。
 
=== 陸軍 ===
[[ファイル:Leclerc-openphotonet PICT6015.JPG|right|thumb|180px|[[フランス陸軍]]の[[主力戦車]][[ルクレール]]]]
{{Main|フランス陸軍}}
[[陸軍]]は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦[[旅団]]、2個補給旅団からなる。主要装備は[[戦車]]834輌、[[装甲車]]4,950輌、各種[[火砲]]802門、[[ヘリコプター]]498機である。
 
=== 海軍 ===
[[ファイル:Gaule96.jpg|left|thumb|180px|[[フランス海軍]]初の原子力水上艦[[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]]]
{{Main|フランス海軍}}
[[海軍]]は戦略作戦司令部と海上、[[対潜戦|対潜]]、[[掃海艇|掃海]]、[[潜水艦]]などの専門作戦司令部からなる。主要装備は[[弾道ミサイル]]搭載[[原子力潜水艦]]4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、[[原子力空母]]1隻、[[ヘリ空母]]1隻、[[ミサイル駆逐艦]]3隻、[[駆逐艦]]9隻、[[フリゲート]]20隻などである。
 
=== 空軍 ===
[[ファイル:Rafale Red Flag 08-402.jpg|right|thumb|180px|[[フランス空軍]]の[[戦闘機]][[ラファール (航空機)|ラファール]]]]
{{Main|フランス空軍}}
[[空軍]]は6個攻撃[[戦闘機]]中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個[[電子戦]]中隊からなり、主要装備は[[作戦機]]433機、[[早期警戒管制機]]4機、[[偵察機]]4機、[[空中給油機]]45機、[[輸送機]]131機などである。
 
=== 憲兵 ===
{{main|フランス国家憲兵隊}}
憲兵は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置した上で内務省に属し、警察業務を担当する。
 
== 国際関係 ==
{{main|フランスの国際関係|:en:Foreign relations of France}}
[[File:Diplomatic missions of France.PNG|thumb|520px|フランスが外交使節を派遣している諸国の一覧図]]
フランスは歴史ある大国であり、ヨーロッパ世界においてはその動向がヨーロッパ自体の情勢を左右していた。第二次世界大戦中も英米と一歩離れた独自外交を展開しており、第五共和制成立後も[[冷戦]]構造の中でフランスの影響力を保つため、[[ソビエト連邦]]との提携や、[[北大西洋条約機構|NATO]]の軍事機構からの脱退や、1973年から始まった[[フランス・アフリカ首脳会議]]の開催などアフリカ諸国との友好関係の強化が行っている。また[[西ドイツ]](当時)と共に欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、[[欧州連合]]の主要国として存在感を高めている。また、アメリカ合衆国による2003年の[[イラク戦争]]には終始反対した。
 
フランスは旧植民地との間に[[フランス共同体]]を結成しており、一首の連携関係を構築している。またアフリカの旧植民地においては、暴動や内戦の際に親仏政権の維持のための軍事介入が行われることなどもあり、現在も[[セネガル]]や[[ジブチ]]にはフランス軍の軍事基地がある他、1994年の[[ルワンダ紛争]]や、2002年に始まった[[コートジボワール内戦]]にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ<ref>山田文比古『フランスの外交力』集英社(集英社新書) 2005 pp.129-130</ref>。2012年から[[マリ北部紛争 (2012年)|マリ北部紛争]]に介入している。こうしたフランスの姿勢を[[新植民地主義]]であると批判する声もある。またフランス語地域のある国とは[[フランコフォニー国際機関]]を結成し、連携を強めている。
 
欧州連合加盟各国が[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と国交を結んでいる中、フランスは2013年12月現在も日本やアメリカと同様に北朝鮮と[[国交]]を締結していない。
 
=== イギリスとの関係 ===
{{main|英仏関係}}
フランスと[[イギリス]]は歴史上錯綜した関係を持ってきた。[[イングランド]]は、[[ノルマン・コンクエスト]]を通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれた[[プランタジネット朝]]のイングランド王は、王権の確立が遅れていた[[カペー朝]]のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。
 
[[ファイル:Battle of crecy froissart.jpg|thumb|220px|クレシーの戦い(百年戦争)]]
こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。[[ジャンヌ・ダルク]]が活躍したことで有名な[[百年戦争]]は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人とイギリス人の間に、後の[[国民国家]]の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。また[[フランス第一帝政]]時代の[[対仏大同盟]]は、イギリスが盟主的存在であった。
 
こうした歴史的経緯から、フランス人とイギリス人の間には根深い対抗意識が根付くこととなった。英単語でフランスを意味する「フレンチ」がつく単語はあまり良くない意味であることが多く{{要出典|date=2009年11月}}、フランス語でイギリスを意味する「アングレーズ」がつく料理は簡単かまずいかのどちらかであるといわれている{{要出典|date=2013年12月8日 (日) 04:10 (UTC)}}。また[[アメリカ英語]]では「フレンチフライズ」というフライドポテトのことを、イギリス英語では「チップス」という。
 
英語での生きている牛 (cow) もしくは生きている豚 (pig) と死んだあとの食肉としての牛 (beef) と豚 (pork) の呼び方が異なる理由は、ノルマン・コンクエストによってイギリスを支配したノルマン系のイングランド貴族の母語がフランス語であり、被支配者であるアングロ・サクソン系の農民の育てた家畜は生きている間はアングロ・サクソン系の語彙で呼ばれ、肉となって調理され、貴族の食卓に上るとフランス語系の語彙で呼ばれるようになったのが由来である。即ち、ビーフとポークは本来フランス語である(ただし英語とフランス語のビーフ・ポークの綴りは異なる)。
 
政治的には1904年の[[英仏協商]]締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後は[[第二次中東戦争|スエズ危機]]のように両国が協調した行動を取ることもあるが、[[イラク戦争]]に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。
 
=== 日本との関係 ===
{{main|日仏関係}}
==== 歴史 ====
日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末期以降である。[[1858年]][[10月9日]]に、フランスから[[日本]]に外交使節団長として派遣された[[ジャン・バティスト・ルイ・グロ]]男爵
によって、日本と最初の[[日仏修好通商条約|修好通商条約]]が当時の日本の幕府があった[[江戸]]で調印された。
 
[[明治維新]]後には[[西園寺公望]]をはじめとする政治家、[[大山巌]]らの軍人、[[黒田清輝]]らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、[[岩倉使節団]]がフランスを訪問しており、当時の[[パリ]]の様子が「[[米欧回覧実記]]」に詳しく記されている(一部スケッチ入り)<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・3』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年</ref>。日本は[[民法]]・[[刑法]]改正に[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。
 
[[義和団の乱]]では共同歩調を取ったが、[[日清戦争]]後にフランスは、日本に[[遼東半島]]を返還するよう働きかける[[三国干渉]]を行っている。[[第一次世界大戦]]においては[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として戦い、[[1919年]]の[[パリ講和会議]]では日本の提出した[[人種差別撤廃案]]に賛成している。その後の[[第二次世界大戦]]においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本は[[フランス領インドシナ]]への進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた([[仏印進駐]])。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、[[1940年]]の[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]では日本の仲介により[[東京条約]]を締結しタイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。[[真珠湾攻撃]]後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで[[明号作戦]]によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、[[日本の降伏文書|降伏文書]]には臨時政府のフランス代表も署名している。
 
1951年、[[日本国との平和条約]]締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。
 
==== 日本におけるフランス ====
日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国として有名であり、毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、[[在フランス日本人|在仏日本人]]は3万5千人に及ぶ<ref>[http://www.jetro.go.jp/biz/world/europe/fr/basic_01/ フランス - 概況] - JETRO</ref>。
経済面では、1992年から2000年にかけフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで[[貿易]]額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/france/kankei.html 最近のフランス情勢および日仏関係] - 外務省</ref><ref>[http://www.jetro.go.jp/biz/world/europe/fr/basic_01/#6 フランス - 概況] - JETRO</ref>。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度は他の先進国や中進国と比較してさほど高くない<ref>http://www.jetro.go.jp/jpn/stats/trade/excel/rank2004.xls 2004年日本の貿易相手国TOP50] - JETRO</ref>。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これは[[ドイツ]](14.5%)、[[スペイン]](10.2%)、[[イタリア]](9.2%)、[[イギリス]](8.8%)、[[ベルギー]](7.6%)といった[[ヨーロッパ連合|EU]]諸国、[[アメリカ合衆国]](7.2%)、[[中華人民共和国]](1.7%)に次ぐものとなっている<ref>[http://www3.jetro.go.jp/jetro-file/search-text.do?url=010022500402 フランス;貿易統計 輸出(国・地域別)] - JETRO</ref>。
 
しかし、直接投資においては、1999年の[[ルノー]]による[[日産自動車]]の買収に伴い、日産の[[最高経営責任者]]となった[[カルロス・ゴーン]]は一般の日本人にも知名度があり、これに[[プジョー]]を加え[[フランス車]]も、[[ドイツ車]]などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側も[[トヨタ自動車]]がほぼ同時期に北部[[ノール県]][[ヴァランシエンヌ]]に工場を建設しているほか、[[NTN]]など自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。
 
古くは[[江戸幕府]]の[[幕府陸軍|幕府陸軍]]、および明治以降の[[日本軍|日本陸海軍]]もフランス軍の影響を相当受けていた([[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|第一次]]・[[フランス軍事顧問団 (1872-1880)|第二次]]・[[フランス軍事顧問団 (1884-1889)|第三次フランス軍事顧問団]])。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]はその健軍にあたってフランス陸軍を師とし、[[鎮台]]制などのフランスの兵式を採用し強い影響を受けている。なお、旧陸軍および現在の[[陸上自衛隊]]の制式行進曲である『[[陸軍分列行進曲|陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)]]』は、明治初期に[[お雇い外国人|御雇外国人]]としてフランスから派遣された[[シャルル・ルルー]]陸軍軍楽大尉相当官によって作曲されたものである。1880年代中後半には普仏戦争の影響もあり、[[1888年]]([[明治]]21年)に全体的にプロイセン(ドイツ)式に転換したもののフランス色は完全に排除されたわけではなく([[軍服 (大日本帝国陸軍)#明治38年戦時服|明治38年]]・[[軍服 (大日本帝国陸軍)#明治45年制式|45年制式]]の[[軍服 (大日本帝国陸軍)|軍服]]に[[肩章#ショルダーストラップ|フランス式の肩章]]を採用)、また第一次大戦から1930年代までは、[[銃火器]]・[[火砲]]・[[戦車]]および航空機(後述)等の開発においてはフランスの影響が再度強くなっている。[[大日本帝国海軍|海軍]]は健軍当初から兵式はイギリス式を採用していたが、当時のフランスはイギリスに次ぐ海軍大国でもありその存在は無視出来るものではなく、1880年代の第三次フランス軍事顧問団において海軍技術者[[ルイ=エミール・ベルタン]]などを御雇外国人として招き主力艦を含む多数の[[軍艦]]を設計させている。そのため19世紀が終わる頃まではフランス海軍の影響も大きかった。
 
航空分野においては、[[1910年]](明治43年)に[[徳川好敏]]・[[日野熊蔵]]両陸軍大尉がフランスの[[飛行機]]の操縦技術を学び、フランス製の[[ファルマン III|アンリ・ファルマン]][[複葉機]]を持ち帰り、同年[[12月19日]]に[[代々木練兵場]]で初飛行した。なお徳川好敏は、日本人として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。第一次大戦時の[[1914年]]([[大正]]3年)に編成された日本発の[[飛行隊|実戦飛行部隊]]たる陸軍の[[臨時航空隊]]は、フランス製の軍用機と技術をもって[[青島の戦い]]に参戦しドイツ軍と交戦した。大戦末期の[[1918年]](大正8年)1月、陸軍はフランス側より航空部隊の無償技術指導の提案を受け、フォール陸軍大佐( Jacques-Paul Faure)を団長にした61名のフランス航空教育団 ( Mission militaire française au Japon (1918-1919))を迎え、[[所沢陸軍飛行場]](現・[[所沢航空記念公園]])など各地で教育を受けている(少数ではあるが海軍軍人も聴講員として参加)。このように、のちの[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]]、しいては日本の航空・航空戦力の原点はフランスであった。
 
== 地方行政区分 ==
{{main|フランスの地方行政区画|フランスの地域圏|フランスの海外県・海外領土}}
フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土([[メトロポリタン・フランス]])の位置する[[ヨーロッパ]]の領土は22の'''地域圏'''(レジオン région)に区分され、その下に100の'''県'''(デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2~8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、[[コルシカ島|コルシカ]]に1つに分かれる。さらに海外の[[アメリカ大陸]]や[[インド洋]]などには、4つの'''[[海外県]]'''と、複数の'''[[海外領土]]'''がある。各県はさらにコミューンに分かれる。[[2009年]][[3月29日]]、アフリカ東部沖の[[コモロ諸島]]にある[[マヨット]](人口約20万人)を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。
 
=== 主要都市 ===
{{Main|フランスの都市の一覧|Category:フランスの都市}}
表は市内の人口順ではなく、都市圏の人口順に並べている。フランスの人口は、[[パリ]]への一極集中が目立ち、同市に次ぐ都市は規模が小さい。
 
{| class="infobox" style="text-align:center; width:97%; font-size:80%"
|-
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"|
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 都市
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| [[フランスの地方行政区画|行政区分]]
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口
! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 都市圏人口
|-
| style="text-align:center;"| '''1'''
| style="text-align:center;"| '''[[パリ]]'''
| style="text-align:center;"| [[イル=ド=フランス]]
|align="right"| 2,240,621
|align="right"| 12,341,418
|-
| style="text-align:center;"| '''2'''
| style="text-align:center;"| '''[[リヨン]]'''
| style="text-align:center;"| [[ローヌ=アルプ]]
|align="right"| 496,343
|align="right"| 2,214,068
|-
| style="text-align:center;"| '''3'''
| style="text-align:center;"| '''[[マルセイユ]]'''
| style="text-align:center;"| [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール]]
|align="right"| 852,516
|align="right"| 1,727,070
|-
| style="text-align:center;"| '''5'''
| style="text-align:center;"| '''[[トゥールーズ]]'''
| style="text-align:center;"| [[ミディ=ピレネー]]
|align="right"| 453,317
|align="right"| 1,270,760
|-
| style="text-align:center;"| '''4'''
| style="text-align:center;"| '''[[リール (フランス)|リール]]'''
| style="text-align:center;"| [[ノール=パ・ド・カレー]]
|align="right"| 228,652
|align="right"| 1,166,452
|-
| style="text-align:center;"| '''7'''
| style="text-align:center;"| '''[[ボルドー]]'''
| style="text-align:center;"| [[アキテーヌ]]
|align="right"| 241,287
|align="right"| 1,158,431
|-
| style="text-align:center;"| '''6'''
| style="text-align:center;"| '''[[ニース]]'''
| style="text-align:center;"| [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール]]
|align="right"| 343,629
|align="right"| 1,004,914
|-
| style="text-align:center;"| '''8'''
| style="text-align:center;"| '''[[ナント]]'''
| style="text-align:center;"| [[ペイ・ド・ラ・ロワール]]
|align="right"| 291,604
|align="right"| 897,713
|-
| style="text-align:center;"| '''9'''
| style="text-align:center;"| '''[[ストラスブール]]'''
| style="text-align:center;"| [[アルザス]]
|align="right"| 274,394
|align="right"| 768,868
|-
| style="text-align:center;"| '''10'''
| style="text-align:center;"| '''[[レンヌ]]'''
| style="text-align:center;"| [[ブルターニュ地域圏]]
|align="right"| 209,860
|align="right"| 690,467
|-
| colspan="11" style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 2012年国勢調査
|}
{{clear}}
 
== 地理 ==
{{main|フランスの地理}}
[[ファイル:GMT France 2.png|thumb|260px|フランスの地形図]]
=== 地形 ===
フランスの国土は[[西ヨーロッパ]]に位置する本土のほか、[[地中海]]に浮かぶ[[コルシカ島]]、[[南アメリカ|南米]]の[[フランス領ギアナ]]、[[カリブ海]]の[[マルティニーク]]、[[グアドループ]]、[[インド洋]]の[[レユニオン]]といった4海外県、さらには[[ニューカレドニア]]や[[フランス領ポリネシア]]など[[オセアニア]]の属領をも含む。その面積は[[西ヨーロッパ]]最大であり、フランス本土だけで日本の1.5倍あり<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=99awWMgx_K4C&pg=PA12 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』]玉川大学出版部, 2004, p12</ref>、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい[[六角形]]の形を成しており、これはフランスの公用語である[[フランス語]]にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone(レグザゴーヌ)"が「フランス本土」を意味する。その6辺の国境のうち、1辺は平野と川(ライン川)、2辺は山脈(ピレネーとアルプス)、3辺は海(地中海、大西洋、北海)である<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=99awWMgx_K4C&pg=PA13 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』]玉川大学出版部, 2004, p13</ref>。
 
[[ファイル:MountBlanc04.jpg|thumb|240px|left|フランス最高峰 [[モンブラン]]]]
フランスの地形のおもな特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境がある他は、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある(国土の60%が海抜250m以下の平地であり、2000mを超える山岳地帯は東部と南西部の国境付近のみ<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=99awWMgx_K4C&pg=PA9 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』]玉川大学出版部, 2004, p9</ref>)。
 
北部、西部に広がる、フランスでも最も広い領域を占める比較的平らな地域は、[[東ヨーロッパ]]から続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候と併せて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部[[ドイツ]]国境には[[ヴォージュ山脈]]、[[スイス]]国境には[[ジュラ山脈]]が延びる。ヴォージュ山脈は[[ライン川]]の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は[[中央高地 (フランス)|中央高地]]が広がり、北から南へ流れ下る[[ローヌ川]]を越えると、[[アルプス山脈]]につながっていく。南部[[イタリア]]との国境を成すアルプスの山々は、多くが標高4000m以上で、その最高峰が[[モンブラン]]である。アルプス越えには[[古代ローマ]]の時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのが、[[プチ・サン・ベルナール峠|サンベルナール峠]]である。南西部の[[スペイン]]国境には[[ピレネー山脈]]が延びる。[[峠]]がほとんど無いピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。[[サントラル高地]]の最高峰はドール山 (1,866m)。ピレネー山脈の最高峰[[アネト山]] (3,404m) はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置する[[モンブラン]] (4,810m)。
 
主な河川は北から反時計回りに、[[セーヌ川]] (776km)、[[ロワール川]] (1012km)、[[ガロンヌ川]] (647km)、[[ローヌ川]] (812km)。<!-- 河川の長さはfrwpに従った -->
 
=== 気候 ===
フランスの気候は大陸性、海洋性、地中海性の気候区に分割される。[[海洋性気候]]は大西洋側の国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の[[大陸性気候]]は[[東ヨーロッパ]]、つまり[[ポーランド]]や[[ルーマニア]]が西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。[[地中海性気候]]は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。このように三種類の気候が共存している例はヨーロッパの中でフランスだけである<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=99awWMgx_K4C&pg=PA14 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』]玉川大学出版部, 2004, p14</ref>。
 
== 経済 ==
{{main|フランスの経済}}
[[ファイル:La Défense remote view from Eiffel tower second floor.jpg|thumb|left|200px|[[パリ]]はビジネス、文化、政治などを総合評価した[[世界都市#世界都市指数|世界都市格付け]]で[[ニューヨーク]]、[[ロンドン]]に次ぐ世界第3位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>。]]
[[2013年]]のフランスの[[GDP]]は2兆7373億ドルであり、[[アメリカ]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[日本]]、[[ドイツ]]に次ぐ世界第5位である<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=31&pr.y=16&sy=2013&ey=2019&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=132&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMF: World Economic Outlook Database]</ref>。また、同年の一人当たりのGDPは42,999ドルであり世界水準のおよそ4倍、日本と比較しても僅かに多くヨーロッパ屈指の経済大国であることが分かる。[[観光]]客入国数では世界一、農産物輸出額では世界第2位を占める<ref>{{cite web |url=http://www.fao.org/economic/ess/publications-studies/statistical-yearbook/fao-statistical-yearbook-2007-2008/c-international-trade/en/ |title=Table C1 – Value of agricultural imports and exports, FAO Statistical Yearbook 2007-2008 |publisher=FAO |accessdate=2009-12-19}}</ref>。[[農業]]は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。
 
[[第二次世界大戦]]後は、鉄道や航空、銀行、炭田の国有化が行われた。[[マーシャル・プラン]]を原資としたモネ・プラン、次いでイルシュ・プランで経済復興が行われた。自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。[[1981年]]の[[フランソワ・ミッテラン]][[フランスの大統領|大統領]]の[[社会党 (フランス)|社会党]]政権時代には産業国有化がさらに進められたものの、経済成長の鈍化で頓挫した。[[1986年]]に保守派[[ジャック・シラク|シラク]]が[[フランスの首相|首相]]になって国家の役割が縮小されたものの([[コアビタシオン|第1次コアビタシオン]])、[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス]]などと比べても金融・保険・電力・運輸・国防産業などの分野で依然として政府は大きな影響力を有し、[[国家資本主義]]の色彩が濃い。
 
[[1990年代]]後半は、[[ヨーロッパ通貨統合]]に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。しかし、[[2000年]]を境に[[GDP]]の[[実質経済成長率]]は大きく低下して、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内という[[欧州連合|EU]]の財政協定の基準([[収斂基準]])を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%をこえる[[失業率]]も、90年代末から改善されて[[2001年]]には8%台になったが、その後は再び悪化して2005年初めには10%を突破した<ref name=unemployment>オイルショックが発生した1974年は2.4%だった満15歳以上男女の失業率は第2次オイルショックがあった1979年には5.9%まで上昇、1990年代前半までは10%前後の失業率となっていた。{{cite web|url=http://laborsta.ilo.org/STP/guest|title=Laborsta |publisher=[[国際労働機関|ILO]] |accessdate=2009-12-22}}</ref>。しかし、05年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善されたものの、[[世界金融危機_(2007年-)]]で財政出動を余儀なくされたことから、GDP比3%の財政赤字の基準は守れておらず、EUの欧州委員会から財政赤字の立て直しの勧告が出されている<ref>{{cite web|url=http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-12749520091203|title=EU財務相会合、加盟13カ国に対し財政赤字削減の期限を設定 |publisher=ロイター |accessdate=2009-12-19}}</ref>。
 
2008年度版[[フォーチュン・グローバル500]]によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、[[国際石油資本]]の[[トタル]](本社[[パリ]]、8位)、保険の[[アクサ]](パリ、15位)、金融の[[BNPパリバ]](パリ、21位)、金融の[[クレディ・アグリコル]](パリ、23位)、小売の[[カルフール]]([[ルヴァロワ・ペレ]]、33位)、金融の[[ソシエテ・ジェネラル]](パリ、43位)、自動車メーカーの[[プジョー]](パリ、66位)、電力会社の[[フランス電力]](パリ、68位)、電気通信事業者の[[フランステレコム]](パリ、84位)、水道や電力、ガス事業などを行う[[スエズ (会社)|スエズ]](パリ、97位、現[[エンジー]])が並ぶ。
 
[[2009年]]3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万~250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。
 
=== EUの中心メンバー ===
[[ファイル:Flag of France and EU.jpg|thumb|フランスは[[欧州連合]](EU)加盟国であり、その[[単一市場]]の構成国である。]]
[[欧州連合|ヨーロッパ連合]](英語表記ではEU、但しフランス語表記での略称は'''UE'''-''Union européenne''-<small>フランス語:ユニオン ウロペンヌ </small>となる。本項目では特に断りがない限りEUと表記する)の歴史的創立メンバーの1国であり、特に隣国[[ドイツ]]との経済的・社会的統合を推進している。フランスの金融政策は[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]の[[欧州中央銀行|ヨーロッパ中央銀行]]で決定され、[[ナポレオン1世]]の時代以来使用されていたフランスの通貨[[フランス・フラン|フラン]]は、[[1999年]]の[[ヨーロッパ通貨統合]]への参加により[[2002年]]始めに完全に[[ユーロ]]に切り替わった。
 
=== 農業 ===
EU最大の農業国で「ヨーロッパのパン籠」と言われる。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位以内の生産高を誇る。地形が概して平坦なため、国土面積の53.6%が農業用地と比率的には日本の約4.5倍に達し、国土の36%が耕作地で、18%が酪農用地である(国連FAO)。農業従事者は労働力の約3%。1955~2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。穀物は、[[コムギ|小麦]]、[[大麦]]、[[トウモロコシ]]、根菜は[[じゃがいも]]、[[テンサイ]]、畜産では[[ブタ]]、[[鶏卵]]、[[牛乳]]の生産が際立つ。このほか、[[亜麻]]や[[アブラナ|なたね]]の生産高も多い。[[テンサイ]]の生産高は世界一である。政府は農業を重要輸出産業とし国際競争力の強化を図る他、農業経営の近代化、若年層の就農促進等の政策を実施している。
 
=== 鉱業 ===
第二次世界大戦後までは、[[ルール地方]]の鉄と石炭が鉱業の大半を占めていた。21世紀初頭においては、既に鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。最も規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位 (3.3%) の塩(700万トン、2002年時点)である。
 
有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。例えば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、金、銀、その他の地下資源では[[カリウム|カリ塩]]、硫黄を採掘している。
 
=== 工業 ===
[[ファイル:Renault Vel Satis Facelift 20090809 front.JPG|thumb|left|[[ルノー・ヴェルサティス]]]]
 
フランスの工業は食品工業、製材、製紙、運輸、機械、電気機械、金属、石油化学工業、自動車産業が中心である。世界一の生産高を誇るワイン、世界第2のチーズのほか、バター、肉も五本の指に入り、製糖業も盛ん。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料製造、プラスチック、合成ゴム、タイヤと全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。
 
自動車製造業は世界7位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で10番目に入る自動車大国でもある。主なメーカーとして現在日本の[[日産自動車]]を傘下に収める[[ルノー]]や、[[PSA・プジョーシトロエン]]などがある。[[軍需産業|国防産業]]では、[[タレス・グループ|タレス]]、[[DCNS]]、[[サフラングループ|サフラン]]などの大企業が存在し、これらによる造船業も盛んである。
 
[[ファイル:Air france a318-100 f-gugb manchester arp.jpg|thumb|[[エールフランス]]の[[エアバスA318]]]]
フランスの[[フラッグ・キャリア]]は、[[エールフランス]]であり、[[スカイチーム]]に設立時から所属している。[[EADS]]や[[エアバス]]、[[マトラ]]、[[ダッソー]]などの企業が代表するように[[航空宇宙産業]]も発達しており、[[ロシア]]を除きヨーロッパではフランスだけが宇宙船発射能力を持つ。
 
エネルギーでは[[原子力発電]]への依存率が世界で最も高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、[[火力発電]]は約11%、[[水力発電]]は約10%にすぎない<ref>{{cite web |url=http://www.developpement-durable.gouv.fr/energie/statisti/pdf/elec-analyse-stat.pdf |title=L'électricité en France en 2008 |language=フランス語|publisher=Ministère de l'Écologie, de l'Énergie, du Developpement durable et de l'Aménagement du territorie |accessdate=2009-12-19 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20090806234023/http://www.developpement-durable.gouv.fr/energie/statisti/pdf/elec-analyse-stat.pdf |archivedate=2009年8月6日}}</ref>。発電用原子炉の数は[[アメリカ合衆国]]に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占めていて、近隣諸国にも多くの電力を供給しており、EUで最大の電力輸出国となっている。主な原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、[[ノール県]])、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、[[セーヌ=マリティーム県]])、カットノン原子力発電所(5,448千kW、[[モゼル県]])。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。
 
=== 貿易 ===
フランスは伝統的に西ヨーロッパにおける最も重要な農業国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内の工業国としてもドイツに次いで重要な位置を占めるようになった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった<ref>統計値は、''United Nations Statistical Yearbook 2004''、「世界国勢図会 2005/06」、矢野恒太記念会、ISBN 4-87549-435-1 による。</ref>。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3660億ドル、輸入額は3696億ドルである。
 
輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。主な輸出国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。
 
フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、[[チーズ]]では第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。
 
輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。主な輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。
 
1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大して来たことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。
 
=== 高失業率 ===
{{see also|2005年パリ郊外暴動事件|初期雇用契約}}
オイルショック以降、フランスは慢性的な高失業率に悩まされている<ref name=unemployment/>。特に[[西アフリカ]]や[[中東]]、[[北アフリカ]]などの元植民地からの[[移民]]とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動が度々起きている。とりわけ[[2005年]][[10月27日]]に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリを始めとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がった([[2005年パリ郊外暴動事件]]を参照)。
 
就業者を上げるために、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇出来るという、青年雇用対策「[[初期雇用契約]]」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては[[労働組合]]も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国で[[TGV]]をはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種で[[ゼネラルストライキ]]が行われ、交通機関などで麻痺状態に陥った。[[ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン|ド・ビルパン]]首相は撤回に応じないと表明したが、[[4月10日]]になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。
 
== 交通 ==
{{main|フランスの交通}}
{{節stub}}
=== 道路 ===
{{節stub}}
 
=== 鉄道 ===
{{Main|フランスの鉄道|フランスの鉄道史}}
{{節stub}}
 
== 国民 ==
{{main|フランス人|:en:French people|フランスの人口統計|:en:Demographics of France}}
[[ファイル:Point a Pitre.jpg|thumb|260px|[[グアドループ]]の市場。フランスの海外県や海外領土には多数の有色人種系の市民が存在する。]]
 
欧州最大の[[多民族国家]]であるフランスでは、本土では[[ケルト人]]・[[ラテン人]]・[[ゲルマン人|ゲルマン]]系の[[フランク人]]などの混成民族である[[フランス人]]が大半を占める。基本的にはラテン化したケルト人を少数のゲルマン人が征服して成立した国、と見なすことが多いが、今も議論の的である。世界、特に欧州では混成民族でない国民はほとんど存在しないとはいえ、たとえばドイツ人がゲルマン人を主流としていることに異論は少ないのに対し、フランス人はそうした主流を挙げることが困難なほどに三つの流れが拮抗した比重を持つのが特徴である。また、本土でも[[ブルターニュ]]ではケルト系の[[ブルトン人]]、[[スペイン]]との国境付近には[[バスク人]]、[[アルザス]]ではドイツ系の[[アルザス人]]などの少数民族が存在する。また、[[コルシカ島]]も[[イタリア人]]に近い民族[[コルシカ人]]が中心である。一方、[[西インド諸島]]や[[ポリネシア]]の海外県や海外領土では非白人の市民が多い。
 
[[人種差別]]は存在しないわけではないが、もともと混成民族をベースにすることもあり、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]時代の[[ドイツ]]のような純血主義に走る例は少なく、フランス語とフランス文化に敬意を払う人間は他国人であっても同胞として遇する傾向がある。パリが芸術の都として世界中から画家や音楽家を集めた背景にもそうした気風があり、イタリア訛の抜けなかったナポレオンも国民の英雄としてもてはやされた。前大統領サルコジも移民2世であり、これは移民国家のアメリカの大統領ですら過去に例がない。ドイツ人とアルジェリア人を両親に持つ女優[[イザベル・アジャーニ]]が国民的トップ・アイドルとして敬慕されるのも、この気風に根ざしている。
 
伝統的にフランスは[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国などから多くの[[移民]]・政治的[[難民]]を受け入れており、低賃金労働に従事する労働者もいた一方、フランスに移住した有数な才能の手で文化や科学を発達させてきた。近年では、[[アフリカ]](主に[[1960年代]]までフランスの[[植民地]]であった地域)・[[中近東]]からの[[移民]]が多い。
 
=== 社会保障 ===
[[File:Pyramide age fr.svg|lang=ja|thumb|right|フランスの[[人口ピラミッド]]]]
{{See also|フランスの医療}}
フランスは早くから[[少子化]]対策に取り組み、[[国内総生産|GDP]]のおよそ2.8%にも相当する巨費を投じ国を挙げて出産・育児を支援する制度を様々に取り入れてきた。代表的なものとしては世帯員(特に子供)が多い家庭ほど[[住民税]]や[[所得税]]などが低くなる『N分N乗税制』や、公共交通機関の世帯単位での割引制度、20歳までの育児手当などがある。この結果、1995年に1.65人まで低下したフランスの出生率は2000年1.89人に、2006年には2.005人にまで回復した。現在[[先進国]]で出生率が2人を超えている国は他に[[アメリカ合衆国]]と[[ニュージーランド]]ぐらいであり、フランスはヨーロッパ一の多産国となった<ref> [http://www.insee.fr/fr/ffc/ipweb/ip1118/ip1118.html Insee Premiere n°1118 - Bilan demographique 2006 : un excedent naturel record](フランス語)</ref>。
 
ただ一方で子供を4人以上産めば事実上各種手当だけで生活する事が可能となり、結果として低所得者が多いアフリカ系の移民やイスラム系の外国人労働者を激増させているのではないかとの指摘もある。これに対して[[INSEE]](フランス国立統計経済研究所)は「移民の出生率は平均より0.4%ほど高いが、全体に占める割合が大きくないので大勢にそれほど大きな影響を与えているわけではない」と説明している<ref>[http://health.nikkei.co.jp/special/child.cfm?&i=2006011908281p4 フランスの05年出生数、3年連続増加・出生率1.94に] - NIKKEI NET、2006年1月19日</ref>。
 
[[医療制度]]も評価が高く[[ユニバーサルヘルスケア]]が達成されており、WHOによる2000年の医療制度効率性ランキングにおいてはフランスが第一位となった。
 
=== 言語 ===
{{see also|フランスの言語政策|フランス語圏|フランコフォニー国際機関|フランコフォニー}}
現行の憲法第二条によると、1992年から[[フランス語]]はフランスの唯一の[[公用語]]である。ただし、[[オック語]]、[[ピカルディ語]]などの幾つもの[[ロマンス語]]系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系の[[ブルトン語]](ブレイス語)、[[アルザス]]では[[ドイツ語]]の一方言である[[アルザス語]]、北部[[フランドル・フランセーズ]]では[[オランダ語]]類縁の[[西フラマン語#沿岸西フラマン語の分類|フランス・フラマン語]]、コルシカでは[[コルシカ語]]、海外県や海外領土では[[クレオール語|クレオール諸語]]など77の地域語が各地で話されている。近年まで、フランス政府と国家の教育システムはこれらの言語の使用を留めてきたが、現在は様々な度合いで幾つかの学校では教えられている。その他にも移民によって[[ポルトガル語]]、[[イタリア語]]、[[マグレブ・アラビア語]]、[[ベルベル語|ベルベル諸語]]が話されている。フランス語は、フランスのみならず、旧植民地諸国([[フランス語圏]])をはじめとした多くの諸国で広く使用されている言語である。フランスは、[[点字]]が生まれた国でもある。
 
=== 人名 ===
フランスではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。また、婚姻によって姓が変わることはない([[夫婦別姓]])。
 
=== 宗教 ===
{{main|フランスの宗教|:en:Religion in France}}
[[ファイル:Sainte chapelle - Upper level.jpg|thumb|260px|[[ゴシック建築]]の[[教会堂]]で、フランスの宗教建築を代表する[[サント・シャペル]]]]
 
宗教面では、国民の約7割が[[カトリック教会|カトリック]]といわれている。カトリックの歴史も古くフランス国家は[[カトリック教会]]の長姉とも言われている。代表的な教会は[[ノートルダム大聖堂]]、[[サン=ドニ大聖堂]]などが挙げられる。[[パリ外国宣教会]]はその宣教会。フランス革命以降、公共の場における政教分離が徹底され、宗教色が排除されている。
 
近年旧[[植民地]]からの移民の増加により[[ムスリム]]人口が増加し、知事も生まれた。フランスではフランス革命以来の伝統で[[政教分離]]([[ライシテ]])には徹底しており、[[2004年]]には公教育の場でムスリムの女子学生のスカーフをはじめとして[[ユダヤ教]]のキッパなど宗教的シンボルを禁止する法案が成立し、フランス内外のムスリムやユダヤ教徒から反発されている。一方でいくつかのキリスト教的シンボルはすでに一般化していて宗教的シンボルに値しないと許容されているため、宗教的差別であるという意見もある。
 
=== セクト対策 ===
フランスでは政府として[[セクト]]に対処している。非宗教性と中立性を謳った[[ライシテ]]の概念、欧州人権条約等に配慮して実施されている。MIVILUDESという組織を中心に各省庁が連携して犯罪対策とその予防、洗脳対策などを基準に[[セクト]]団体に対処している。セクトとされる基準は犯罪性と被害者の存在と人権侵害である。セクトの選別基準に教義や宗派は関係しないし憲法等に織り込まれたライシテの概念からそのようなことはできない。2005年時点に置いてはセクト特有の犯罪を取り締まるための法律をより一般的な刑法へと発展させようとする方向も見せている。
 
フランス政府は地道な実績を積み上げている。特に悪質な団体を取り締まるために反セクト法(アブピカール法、セクト弾圧法等数多くの俗称で呼ばれた、正確な日本語訳は「人権及び基本的自由を侵害するセクト的運動の防止及び取り締まりを強化する2001年6月12日の法律第2001-504号」である)を制定し、被害者救済を確立するために判例を積み重ね、犯罪の未然防止や活動内容の監視の為に各県に専門部署を設置したり、子供への教育と称して洗脳や酷い教育が行われていないか監視するための部門を設置するなど多岐にわたる。裁判や法律の制定を通じて、セクト被害やその救済という概念を刑法に作り上げようとしている。
 
フランスのセクト対策に関しては疑問の声も多い。人種差別や宗教差別、人権無視に報道の自由の侵害など、少数派に対し不寛容な「人権の祖国」フランス政府の実態に対する疑問も提起されている。ただし疑問の声を提起する論者は、新聞記事の存在を無視する傾向が強い。新聞記事とこれらの疑問の声の間には内容に大きな乖離があり、信頼性については疑問符が付く。フランスのセクト対策は日本の大手新聞でも紹介されている。
 
フランス政府のセクト選別基準はライシテを回避するため、犯罪性や人権侵害が基準になっている。このセクト対策を宗教弾圧だとする意見もあるが、宗教に干渉しているのでなく、政府は犯罪を取り締まっている。しかしフランス政府は単純な取り締まりだけを考えているわけでもない。報告書に見られるように、セクトは大衆の需要を満たし大衆の望むものを提供しているからこそ繁栄しているのであり、単純に弾圧できるものではない。またある団体の行動や習慣を異常と見るか、多文化と見るかも非常に難しい問題であると記述されている。多文化と異常行動の線引き、この難しい問題に対しフランス政府は西欧的人権や被害者の存在に根拠を置くことでバランスを取っている。
 
フランス国内でも、セクト対策は宗教弾圧になりうる危険性があり、ライシテの根幹にもかかわる問題のために、多数の議論を巻き起こし、この過程で「進化するライシテ」「新しいライシテ」等の概念が示された。
 
フランス政府のセクト対策に係わる日本語訳資料については、[[s:フランス政府セクト対策一覧]](WikiSource)参照。
 
=== 教育 ===
{{main|フランスの教育}}
[[ファイル:Sorbonne DSC09369.jpg|thumb|220px|[[ソルボンヌ大学]]]]
 
2歳から5歳までの[[就学前教育]]の後、6歳から16歳までの10年間が無償の[[初等教育]]と前期[[中等教育]]期間となり、6歳から11歳までの5年間がエコール・プリメール(小学校)、その後4年間が[[コレージュ]](中学校)となる。前期中等教育の後3年間の[[リセ]](高等学校)による後期中等教育を経て[[高等教育]]への道が開ける。2003年の推計によると、15歳上の国民の識字率は99%である<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/fr.html 2009年3月30日閲覧</ref>。
 
高等教育機関には一般の[[総合大学]]や[[単科大学]]の他に[[グランゼコール]]と呼ばれるエリート学校があり、代表的な高等教育機関としては[[パリ大学]](1211年)、[[モンペリエ大学]](1289年)、[[エクス=マルセイユ大学]](1609年)、[[ストラスブール大学]](1631年)、[[リヨン大学]](1809年)、[[パリ・カトリック大学]]、[[高等師範学校 (フランス)|エコール・ノルマル]]、[[エコール・ポリテクニーク]]、[[パリ国立高等鉱業学校]]、[[エコール・サントラル]]などが挙げられる。
 
フランスでは、コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になっている。また、一部のエリート大学や[[グランゼコール]]を除き、リセ卒業時に行われる[[バカロレア資格|バカロレア]]に合格すれば任意の大学に入学できる代わり、進級認定は厳格である。
 
フランスの公立学校では、10人に1人は[[いじめ]]の被害にあっているとされ、いじめは大きな社会問題になっている。しかしフランスは、他の[[ヨーロッパ]]諸国より、いじめ対策が遅れているとされる<ref>{{cite news |title=出口なき教室 ~フランス いじめの被害~|newspaper=[[日本放送協会|NHK]] |date=2013-8-23 |url=http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/130828.html |accessdate=2014-7-19 }}</ref>。
 
== 文化 ==
{{main|フランス文化}}
[[ファイル:Tour eiffel at sunrise from the trocadero.jpg|right|thumb|180px|[[エッフェル塔]]は[[パリ]]、およびフランスのシンボルで、[[1889年]]にパリで行われた[[パリ万国博覧会 (1889年)|第4回万国博覧会]]のために建造された。]]
[[ファイル:French taste of wines.JPG|right|thumb|180px|[[フランスワイン]]]]
 
文豪[[スタンダール]]、[[オノレ・ド・バルザック]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]をはじめ中世より文学が発達しており、音楽も盛んである。絵画や[[ファッション]]の分野では数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われ、近年においてもファッションにおいては[[イタリア]]と並び世界をリードする地位にある。また、長年芸術面で欧州世界をリードする地位にあることから、パリを中心に多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけている。特に画家は多いが、音楽でもドイツ人である[[グルック]]、[[オッフェンバック]]、[[マイヤベーア]]がパリを拠点とするなど、多くの外国の才能を吸引した。
 
=== 食文化 ===
{{節stub}}
{{main|フランス料理}}
 
食文化の面では、400年以上前イタリアで生まれた豊かな農産物と王制時代の宮廷文化を背景にした[[フランス料理]]が有名であり、上流階級のフランス料理の他にも地方毎に様々な特色を持つ郷土料理が存在している。蕎麦の[[クレープ]]ガレットや、[[ケーキ]]などの菓子文化も発達した。バゲットやバタール、[[クロワッサン]]などのフランス発祥の[[パン]]も、日本では[[フランスパン]]と呼ばれて親しまれている。[[チーズ]]、[[ワイン]]の生産国としても名高く、[[アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ|AOC]]法によって厳格に品質管理された[[フランスワイン]]は広く国内外に親しまれている。また、ブランデーの生産も盛んで、特に[[コニャック]]地方で生産されるブランデーは品質の良さで知られる。[[カフェ]]文化が育ったのもフランスであり、17世紀後半に生まれたフランスのカフェ文化は、現在まで広く世界中に根付いている。
 
=== 文学 ===
{{節stub}}
{{main|フランス文学}}
{{See also|フランス・ルネサンスの文学}}
[[ファイル:Victor Hugo.jpg|left|thumb|180px|[[ヴィクトル・ユーゴー]]]]
 
中世においては[[騎士道]]を歌い上げる[[叙事詩]]が文学の主流を担い、11世紀に『[[ローランの歌]]』が成立した。
 
ルネサンス期には[[フランソワ・ラブレー]]が活躍し、『[[ガルガンチュワとパンタグリュエル]]』を著した。その後の[[絶対王政|絶対主義]]時代からフランス革命期にかけて[[マルキ・ド・サド]]などが活躍した。
 
19世紀には『[[赤と黒]]』の[[スタンダール]]、[[オノレ・ド・バルザック]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、『[[三銃士]]』の[[アレクサンドル・デュマ・ペール]]などが活躍した。『[[八十日間世界一周]]』、『[[海底二万里]]』で知られる[[ジュール・ヴェルヌ]]は[[サイエンス・フィクション]]の先駆者となった。
 
第一次世界大戦後の戦間期には、『[[帰郷ノート]]』などで知られる[[マルティニーク]]出身の[[エメ・セゼール]]は、[[セネガル]]出身の[[レオポール・セダール・サンゴール]]らと共に、科学的人種主義によって不当な扱いを受けていたアフリカ系黒人の文化の再評価を図る[[ネグリチュード]]運動を担った。
 
=== 哲学 ===
{{main|フランス哲学|:en:French philosophy}}
{{See also|フランス現代思想}}
[[ファイル:Frans Hals - Portret van René Descartes.jpg|thumb|180px|「[[我思う、ゆえに我あり]]」のコギト命題で知られる[[ルネ・デカルト]]]]
 
中世において[[神学]]者の[[ピエール・アベラール]]は[[唯名論]]を唱え、[[スコラ学]]の基礎を築いた。後にスコラ学は[[シチリア王国]]出身の[[トマス・アクィナス]]の『[[神学大全]]』によって大成された。一方正統カトリック信仰とは異なる立場で南フランスでは一時[[グノーシス主義]]の影響を受けた[[カタリ派]]が勢力を伸ばしたが、[[アルビジョワ十字軍]]によるフランス王権の拡張やカトリックによる弾圧によってカタリ派は15世紀までに滅んだ。
 
ルネサンス期には[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]が活躍し、『[[エセー]]』を著してその中で[[アメリカ大陸]]や[[アフリカ]]の住民を擁護した。しかし、モンテーニュの非西欧世界への視線は非西欧を「文明」として捉えることはせず、後のルソーに先んじて「高貴な野蛮人」として扱うものに留まった。
 
宗教改革や対抗宗教改革後の17世紀には[[ジャンセニスム]]や[[ガリカニスム]]が隆盛を迎え、[[ブレーズ・パスカル]]、[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]]らが活躍し、それぞれの立場からカトリック信仰を擁護した。また、『[[方法序説]]』を著した[[ルネ・デカルト]]によって[[近代哲学]]が成立した。
 
18世紀には[[信仰]]よりも[[理性]]を重視する[[啓蒙思想]]が発達し、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[シャルル・ド・モンテスキュー]]、[[ヴォルテール]]、[[フランソワ・ケネー]]らが活躍した。これらの思想家は[[清]]の[[儒教]]の影響などもあって、それまでのキリスト教会が担っていた神聖な権威よりも理性を重視する合理主義的な考察を進め、君主による[[絶対王政|絶対主義]]を否定する[[アメリカ独立革命]]や[[フランス革命]]の理論的支柱となった。しかし、同時に啓蒙主義によってもたらされた合理主義は[[植民地]]の[[サン=ドマング]]や、18世紀末から19世紀末にかけて啓蒙思想を理論的支柱として独立した[[アメリカ合衆国]]や[[ラテンアメリカ]]諸国において、理性を持たない「半人間」という扱いをうけた[[黒人]]や[[アメリカ先住民]]([[インディアン]]、[[インディオ]])を、「より理性的な」白人が合理的に奴隷化し、収奪することを合法化する思想ともなった<ref>[[エドゥアルド・ガレアーノ]]『[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年]]地』大久保 光夫訳 新評論 1971,1986 pp.102-104</ref>。フランス革命中に活躍した平等主義者[[フランソワ・ノエル・バブーフ]]は、その思想の先見性から[[共産主義]]の先駆者と位置づけられた。『[[人間と市民の権利の宣言|人権宣言]]』の説く「人間」に、女性が含まれないことを指摘した[[オランプ・ド・グージュ]]は[[フェミニズム]]の先駆者となった。
 
啓蒙主義を理論的支柱としたフランス革命が一段落した19世紀前半には[[アンリ・ド・サン=シモン]]や[[シャルル・フーリエ]]によって[[社会主義]]思想が唱えられた。彼等の思想は後に[[カール・マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス]]によって[[空想的社会主義]]と呼ばれた。同じ頃[[オーギュスト・コント]]は[[実証主義]]を唱え、実証主義は19世紀後半のラテンアメリカ諸国の政治や文化(1889年の[[ブラジル]]の共和制革命など)に大きな影響を与えたが、[[資本主義]]経済の確立を唱えた実証主義は、ラテンアメリカにおいて、[[社会進化論]]などと共に国家が資本主義的な利用を図るために「野蛮」な[[インディオ]]の共有地や解体し、半奴隷労働を強制することを理論的に支えた。19世紀半ばに[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]は[[無政府主義]](アナルキスム)を体系化し、無政府主義は[[ミハイル・バクーニン]]によってマルクスとエンゲルスの[[史的唯物論]]([[科学的社会主義]])に対抗する社会主義思想となった。[[帝国主義]]の時代において、このような19世紀までの社会主義思想も含めた多くの社会思想は、[[マルクス主義]]者の[[ポール・ルイ]](ポール・レヴィ)や、哲学者の[[フェリシヤン・シャレ]]のような数少ない例外を除いて[[植民地主義]]は「野蛮」な非西欧の「文明化」に奉仕するものだとして、真剣に植民地支配やその結果である収奪、暴力を批判する思想とはならなかった<ref>平野千果子『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院 2002/02 0pp.65-pp.81,pp.236-pp251</ref>。
 
第一次世界大戦後の戦間期には[[アンリ・ベルクソン]]や[[ジョルジュ・ソレル]]らが活躍した。一方、植民地からはマルティニーク出身の[[エメ・セゼール]]やセネガル出身の[[レオポール・セダール・サンゴール]]が科学的[[人種主義]]によって不当に評価を低く見られていた黒人とアフリカ文明を再評価する、ネグリチュード運動が提唱された。
 
[[ファイル:Beauvoir Sartre - Che Guevara -1960 - Cuba.jpg|thumb|220px|[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[チェ・ゲバラ]]([[1960年]]、[[キューバ]])]]
第二次世界大戦後には[[実存主義]]哲学が隆盛を迎え、[[ジャン=ポール・サルトル]]やマルティニーク出身の[[フランツ・ファノン]]は反[[帝国主義]]の立場から[[アルジェリア戦争]]に反対すると共に、[[アルゼンチン]]の革命思想家[[チェ・ゲバラ]]の[[ゲバラ主義]]や[[毛沢東]]の[[毛沢東主義]]と共に[[植民地]]や[[第三世界]]における[[マルクス主義]]による革命闘争の理論的支柱となった。実存主義者の[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]はフェミニズム運動を牽引した。1950年代から1960年代のフランスでは、知識人を中心に毛沢東主義が流行した。
 
実存主義の後には、1960年代からスイスの[[言語学]]者[[フェルディナン・ド・ソシュール]]や、[[人類学]]者[[レヴィ・ストロース]]、[[ヘーゲル]]学者[[アレクサンドル・コジェーヴ]]によって[[構造主義]]が隆盛を迎え、[[ルイ・アルチュセール]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ジャック・デリダ]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[エマニュエル・レヴィナス]]などが活躍した。[[オーストリア]]の[[フロイト]]が大成した[[精神分析]]学は、20世紀後半に[[パリ・フロイト派]]を立ち上げた[[ジャック・ラカン]]によって新たな段階に至った。構造主義の後には[[ポスト構造主義]]が隆盛を迎えたが、1994年の[[ソーカル事件]]により、構造主義やポスト構造主義の「知の欺瞞」が暴露され、衒学的な姿勢は厳しく批判された。ただし、このような限界がありながらも、未だにフランス初の[[ポストモダニスム]]は[[アラン・バディウ]]のようなフランス人のみならず、[[アメリカ合衆国]]の[[ガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァク]](デリダ派)や[[ジュディス・バトラー]](フーコー派)[[スロベニア|スロヴェニア]]の[[スラヴォイ・ジジェク]](ラカン派)らに批判的に継承され、発展を続けているのも事実である。
 
脱植民地化時代のマルティニークにおいてはセゼールやファノンの後継者である[[エドゥアール・グリッサン]]の全世界論や、[[パトリック・シャモワゾー]]、[[ラファエル・コンフィアン]]らの[[クレオール主義]]が唱えられた。
 
1990年代には、かつてチェ・ゲバラと共に[[ボリビア]]での革命運動に参加した[[レジス・ドブレ]]によって[[メディオロジー]]が唱えられ、また毛沢東派の[[アラン・バディウ]]が活動し続けるなど、ポストモダニスム以外の哲学のあり方も変化している。
 
=== 音楽 ===
{{節stub}}
{{main|フランスの音楽|:en:Music of France}}
[[ファイル:Claude Debussy ca 1908, foto av Félix Nadar.jpg|right|thumb|180px|印象派の音楽家、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]]]
 
17世紀前半まではイタリアと並ぶ音楽大国として君臨し、オペラを中心に栄えたが、今日ではこの時期の作品は[[ラモー]]、[[リュリ]]などを例外として演奏機会は多くない。その後、[[ウィーン古典派]]からロマン派にかけてドイツ圏の作曲家たちに押されて奮わなくなり、パリで活躍する作曲家もドイツ人が多くなった。その一人[[オッフェンバック]]の傘下から[[ビゼー]]が出現するが短命で世を去り、その後パリ楽壇のボス的存在であった[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]はドイツ人ペンネームを使うなど{{要出典|date=2010年12月}}、一種の文化植民地状態に陥ってしまう。しかし、そのサン=サーンスを批判した[[セザール・フランク|フランク]](彼もドイツ系[[ベルギー人]]ではあったが)が現れた頃から独自のフランス音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけての「[[フランス6人組]]」や[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]らによって一つの頂点を築く。本来は音楽先進国であったため、これらの運動はいわゆる[[国民楽派]]には含まれないことが多いが、ドイツ楽派の桎梏を逃れる動きという点では呼応するものがあった。
 
[[ポピュラー音楽]]においては20世紀初頭から1950年代にかけて[[ミュゼット]]や、いわゆる[[シャンソン]]として知られる音楽が流行し、[[エディット・ピアフ]]や[[イヴ・モンタン]]、[[シャルル・アズナヴール]]などが活躍した。また、戦前は[[アルゼンチン]]の[[タンゴ]]が流行し、アルゼンチンでは「[[パリのカナロ]]」などの楽曲が作られた。
 
また、[[ジャズ]]が幅広く浸透しており、アメリカのジャズを元に、独自の音楽性を発展させた形式に特徴がある。具体的には、Zeule と呼ばれる1つのジャンルにすらなっている[[マグマ_(バンド)|マグマ]]およびその関係者である[[ディディエ・ロックウッド]]らの音楽がフランス国外でも広く知られている。
 
1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国や[[イギリス]]の[[ロック (音楽)|ロック]]の影響を受け、[[セルジュ・ゲンスブール]]や[[シルヴィ・バルタン]]、[[フランス・ギャル]]、[[ジョニー・アリディ]]、[[ミッシェル・ポルナレフ]]、[[ジュリアン・クレール]]、[[アラン・シャンフォー]]、ロック・バンドではアンジュ、マルタン・サーカス、ズー、テレフォンヌなどが活躍した。1980年代以降はフランスの旧植民地から、出稼ぎにやってきた人々や活動の拠点を母国からフランスに移した音楽家も活躍し始め、[[セネガル]]の[[ユッスー・ンドゥール]]、[[マリ共和国]]の[[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]]、アルジェリア系の[[ラシッド・タハ]]や[[アマジーグ・カテブ]]のような音楽家が活動している。
 
=== 美術 ===
{{節stub}}
{{main|フランスの芸術|:en:French art}}
{{See also|20世紀美術}}
[[ファイル:Louvre Aile Richelieu.jpg|right|thumb|180px|[[ルーヴル美術館]]]]
[[ファイル:P1020514 Paris VII Quai Anatole-France Musée d'Orsay rwk.JPG|right|thumb|180px|[[オルセー美術館]]]]
 
フランスは芸術の国として広くその名を知られており、国内、海外を問わず多くの芸術家がフランスで創作活動を行った。[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ファン・ゴッホ]]や[[パブロ・ピカソ]]、[[ル・コルビュジエ]]などはフランスで創作活動を行った芸術家達の内の極一部である。
 
18世紀末から19世紀初めにかけては[[新古典主義]]により[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の文化の復興運動が進められ、[[フランス革命]]を描いた[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]などが活躍した。
 
19世紀前半には[[ロマン主義]]や[[写実主義]]が隆盛を迎え、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]や[[ギュスターヴ・クールベ]]らが活躍した。19世紀後半には[[印象派]]、[[象徴主義|象徴派]]、[[ポスト印象派]]、[[ジャポニスム]]が隆盛を迎え、[[エドゥアール・マネ]]、[[クロード・モネ]]、[[ポール・セザンヌ]]、[[ポール・ゴーギャン]]らが活躍した。20世紀初頭には[[フォーヴィスム]](野獣派)、[[キュビスム]]、[[アール・ヌーヴォー]]、[[アール・デコ]]が隆盛を迎え、[[ジョルジュ・ブラック]]や[[アンリ・マティス]]らが活躍した。
 
1918年に[[第一次世界大戦]]が終結し、それまで世界の中心的地位を占めていたヨーロッパが衰退すると、戦間期には[[シュルレアリスム]]などそれまでの西欧の美術様式に逆らった美術運動が発展した。
 
[[第二次世界大戦]]後に[[冷戦]]構造の中で[[アメリカ合衆国]]が西側世界の中心となると、フランスの文化的な地位は相対的に低下したが、終戦直後から1950年代にかけて[[アンフォルメル]]や、1960年代に全盛を迎えた[[ヌーヴォー・レアリスム]]などでフランスの芸術運動はアメリカ合衆国と激しく主導権を争った。
 
=== 映画 ===
{{節stub}}
{{main|フランスの映画}}
{{See also|ヌーヴェルヴァーグ}}
 
フランスにおける芸術の中でも近年とりわけ重要視される文化は映画である。フランスで映画は、第七芸術と呼ばれるほど、深く尊敬を集め親しみある存在である。
 
映画の歴史は1895年12月28日の[[リュミエール兄弟]]の上映によって始まり、20世紀初頭には文芸色の強い無声映画が多数作られた。毎年5月には南仏の都市[[カンヌ]]において[[カンヌ国際映画祭|カンヌ映画祭]]が開催され、世界中から優れた映画関係者が集まり華やかで盛大な催しが行なわれる。
 
* [[ジャン=リュック・ゴダール]]
* [[フランソワ・トリュフォー]]
* [[リュック・ベッソン]]
 
=== ファッション ===
{{main|フランスのファッション}}
[[ファイル:Channel headquarters bordercropped.jpg|right|thumb|120px|[[ヴァンドーム広場]]のシャネル本社]]
 
ファッションの大衆化が進んだ[[19世紀]]以降、特に20世紀に入ってからはフランスのファッションブランドが世界を席巻しており、[[ジバンシィ|ユベール・ド・ジバンシィ]]や[[イヴ・サンローラン]]、[[クリスチャン・ディオール]]、[[ココ・シャネル]]などの[[ファッションデザイナー]]による[[オートクチュール]]や[[プレタポルテ]]の他、これらのファッションブランドが展開する香水やバッグなどが人気を博している。他にも、[[ルイ・ヴィトン]]や[[エルメス]]などの旅行用品や馬具のブランドが衣類や靴、バッグ、小物、香水などのラインを出し世界中で人気を博している。また、[[パリコレクション]]が世界中の[[ファッション雑誌]]やバイヤーからの注目を集めていることから、フランス以外の諸外国のファッションデザイナーの多くがコレクションへの参加を行っており、日本からも[[コム・デ・ギャルソン]]([[川久保玲]])や[[ケンゾー]]([[1999年]]まで[[高田賢三]])、Yohji Yamamoto([[山本耀司]])などの多数のファッションブランドが毎年参加しているなど隆盛を極めている。
 
これらのファッションにおけるフランスの隆盛は、フランス文化を諸外国に広めるだけでなく、外貨獲得にも大きく貢献していることから、現在では業界そのものが政府による大きなバックアップを受けている。
 
=== 世界遺産 ===
{{main|フランスの世界遺産}}
[[ファイル:France-Mont-Saint-Michel-1900 bordercropped.jpg|right|thumb|240px|「西洋の驚異」と称される[[モン・サン=ミシェル]]]]
 
フランス国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が35件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が3件存在する。さらにスペインにまたがって1件の[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が登録されている。
 
<gallery widths="140px" heights="140px">
Image:Chartres 1.jpg|[[シャルトル大聖堂]]<br />(1979年)
Image:Versailles Palace.jpg|[[ヴェルサイユ宮殿]]<br />(1979年)
Image:Lascaux painting.jpg|[[ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群]]<br />(1979年)
Image:Amiens-cathédrale.jpg|[[ノートルダム大聖堂 (アミアン)|ノートルダム大聖堂]]<br />(1981年)
Image:FontainebleauSchloß1991.jpg|[[フォンテーヌブロー宮殿|フォンテーヌブローの宮殿と庭園]]<br />(1981年)
Image:Pont du Gard FRA 001.jpg|[[ポン・デュ・ガール]]<br />(1985年)
Image:Petite France Strasbourg.JPG|[[ストラスブールのグラン・ディル]]<br />(1988年)
Image:Seine by Eiffel.jpg|[[パリのセーヌ河岸]]<br />(1991年)
Image:Cathedrale Saint-Etienne (Bourges) 16-09-2006.jpg|[[サン=テチエンヌ大聖堂 (ブールジュ)|ブールジュ大聖堂]]<br />(1992年)
Image:Lyon 20060705.JPG|[[リヨン歴史地区]]<br />(1998年)
Image:Miroir d'eau place de la Bourse.JPG|[[月の港ボルドー]]<br />(2007年)
</gallery>
 
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small"
|-
! 日付 !! 日本語表記 !! フランス語表記 !! 備考
|-
|[[1月1日]]||[[元日]]||Jour de l'An ||
|-
|3月 - 4月||[[復活祭]]日曜日||| Pâques ||[[移動祝日]]
|-
|3月 - 4月||[[復活祭]]翌日の月曜日|| Lundi de Pâques ||移動祝日
|-
|5月1日||[[メーデー]]|| Fête du Travail ||
|-
|5月8日||[[第二次世界大戦]]戦勝記念日|| Le 8 mai ||
|-
|4月 - 6月||[[キリストの昇天|キリスト昇天祭]]|| Ascension ||移動祝日
|-
|5月 - 6月中の日曜日||[[ペンテコステ|聖霊降臨祭]]|| Pentecôte ||移動祝日
|-
|5月 - 6月||聖霊降臨祭の翌日の月曜日|| Lundi de Pentecôte ||移動祝日
|-
|7月14日||[[革命記念日]]|| Fête Nationale ||
|-
|8月15日||[[聖母の被昇天|聖母被昇天祭]]|| Assomption ||
|-
|11月1日||[[諸聖人の日]]|| Toussaint ||
|-
|11月11日||[[第一次世界大戦]][[休戦]]記念日||| Fête de l'Armistice ||
|-
|[[12月25日]]||[[クリスマス]]||| Noël ||
|}
 
== スポーツ ==
{{main|フランスのスポーツ}}
 
フランスの3大人気スポーツは[[サッカー]]、[[自転車]]、[[ラグビー]]である。他にも[[モータースポーツ]]、および下記のスポーツが盛んである。
 
; [[テニス]]
: [[ローラン・ギャロス]]が代表するテニスも盛んで、世界的に著名な選手や監督、指導者も多い。四大大会の一つである[[全仏オープン]]はグランドスラム唯一のクレーコートとして有名。現在は[[ジル・シモン]]、[[リシャール・ガスケ]]、[[ガエル・モンフィス]]、[[ジョー=ウィルフリード・ツォンガ]]、[[ファブリス・サントロ]]、[[セバスチャン・グロージャン]]等数多くのトップ選手のいる強豪国でもある。
; [[ゴルフ]]
: ゴルフ場は多いのに[[ゴルフ]]は競技人口が少なく、当のフランス人たちも不思議な現象と捉えている。
; [[柔道]]
: Judo と綴られる柔道は、競技人口が日本を上回るといわれる程の人気がある。
; [[競馬]]
: [[ロンシャン競馬場]]で[[凱旋門賞]]が[[芝]]コースでは世界最高峰の[[競馬の競走|競走]]として知られる。また、[[繋駕速歩競走]]が盛んであり、[[平地競走]]・[[障害競走]]よりも人気があるといわれている。[[ヴァンセンヌ競馬場]]で行われる[[アメリカ賞]]は世界最高峰の競走で知られる。(詳細については[[フランスの競馬]]を参照)
 
他には[[ペタンク]]が年中よく親しまれており、アルプス地方では[[スキー]]などのウィンタースポーツが伝統的に盛んである。
 
=== サッカー ===
フランスで一番人気のスポーツとしては、[[サッカー]]が挙げられる。フランスはこれまでに、[[FIFAワールドカップ]]2大会と[[UEFA欧州選手権]](通称EURO)2大会の開催国になった。[[UEFA欧州選手権1984|1984年欧州選手権]]で優勝した[[サッカーフランス代表|フランス代表]]の流麗なサッカーは「シャンパン・フットボール」と形容された。2回目の自国開催となった[[1998 FIFAワールドカップ|1998年ワールドカップ]]では大会初優勝を遂げ、直後の[[UEFA欧州選手権2000|2000年欧州選手権]]でも優勝した。メンバーの多くを移民の末裔や海外県出身者が占める代表チームは、国民統合の象徴的な存在にもなった。
 
国内の1部リーグには[[リーグ・アン]]がある。[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)を受賞したフランス人選手には、[[レイモン・コパ]]、[[ミシェル・プラティニ]]、[[ジャン=ピエール・パパン]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]などが挙げられる。
 
また、[[国際サッカー連盟|FIFA]]初代会長の[[ロベール・ゲラン]]、ワールドカップ創設の功労者[[ジュール・リメ]]、欧州選手権の提唱者[[アンリ・ドロネー]]([[:w:Henri Delaunay|Henri Delaunay]])、[[UEFAチャンピオンズリーグ|ヨーロピアンカップ]]の提唱者[[ガブリエル・アノ]]([[:w:Gabriel Hanot|Gabriel Hanot]])、UEFAの会長となったプラティニなど、国際サッカーの発展において重要な役割を果たしたフランス人は数多い。その後、サッカー人口が増加した。
 
=== バスケットボール ===
{{main2|[[:Category:フランスのバスケットボール選手|フランスのバスケットボール選手]]を}}
 
近年数多くの[[NBA]]選手を輩出しており、中でも[[NBA]]史上初の外国人選手のファイナルMVP受賞者となった[[トニー・パーカー]]が有名。
 
国内には[[リーグ・ナショナル・バスケットボール|LNB]]と呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。[[バスケットボールフランス代表|代表]]はこれまでに[[オリンピックバスケットボール競技|オリンピック]]出場6回、[[バスケットボール世界選手権|世界選手権]]出場5回を誇る。2000年[[シドニーオリンピックにおけるバスケットボール競技|シドニーオリンピック]]では銀メダル獲得。決勝戦で[[ドリームチームIV]]と呼ばれた[[バスケットボール男子アメリカ合衆国代表|アメリカ]]を後一歩の所まで追い詰め、それまでの「アメリカ圧勝」の図式を崩した。この苦戦を機に、「ドリームチーム」という名前は使用されなくなった。
 
[[バスケットボール欧州選手権]](通称『[[ユーロバスケット]]』)では、[[2005年バスケットボール男子欧州選手権|2005年]]に銅メダル獲得。[[バスケットボールフランス代表|代表チーム]]の課題は、[[NBA]]選手が多い為、オフシーズンの代表招集に主力が全員揃わない傾向にある。[[バスケットボールフランス代表|代表チーム]]のニックネームは「Les Bleus」。
 
=== サイクルロードレース ===
[[ファイル:TourDeFrance 2005 07 09.jpg|right|thumb|220px|毎年7月に3週間以上かけて行われる[[ツール・ド・フランス]]]]
{{main2|[[:Category:フランスの自転車選手|フランスの自転車選手]]を}}
 
世界最大で[[グランツール|三大ツール]]の一つである[[ツール・ド・フランス]]が行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、[[1903年]]に第1回大会が行われて以来、二度の大戦によって1915年から1918年および、1940年から1946年の中断があるものの、2008年で95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず[[1985年]]の[[ベルナール・イノー]]を最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、[[パリ~ニース]]、[[パリ〜ルーベ]]、[[ドーフィネ・リベレ]]、[[ツール・ド・フランス]]、[[GP西フランス・プルエー]]、[[パリ~ツール]]がある。
 
=== ラグビー ===
フランスにおいてラグビーは富裕層と南部を中心に人気を誇っている。国内ではサッカーと人気を二分するスポーツであり、欧州においても[[イギリス]]に次ぐ強豪国である。[[ラグビーフランス代表|フランス代表]]のパスとランが続く流麗で華やかなプレースタイルはしばしば「シャンパン・ラグビー」などと評される。2007年には[[ラグビーワールドカップ|ワールドカップ(W杯)]]を[[ラグビーワールドカップ2007|自国開催]]したが、準決勝で敗れ、初優勝はならなかった。フランス政府は全国9カ所に、少年層から青年層までの有望選手が勉強しながら育成できる施設をつくっている。
 
=== モータースポーツ ===
[[ルノー]]や[[プジョー]]といった最古の量販車メーカーを抱えることもあって、[[自動車]]が実用化されだした[[20世紀]]初頭から早くもフランス国内では自動車レースが盛んに行われるようになり、[[1906年]]には世界初のグランプリレース、[[フランスグランプリ]]を開催している。他にも、[[1923年]]に初開催された[[ル・マン24時間レース]]、近年はフランス国内がコースに含まれなくなったが[[1979年]]初開催の[[ダカール・ラリー|パリ・ダカール・ラリー]]でも知られる。自動車会社としては、ルノー([[ルノーF1]])がF1、プジョー、[[シトロエン]]が主にラリーで活躍しているほか、[[マトラ (自動車)|マトラ]]、[[リジェ]]といった比較的小規模なメーカーもF1やル・マンで存在感を示している。多くのドライバーも[[モータースポーツ]]黎明期より数多く輩出しており、そのため優れた結果を残したドライバーも数多い。
 
=== クリケット ===
フランスにおいて[[クリケット]]はマイナー競技といわれているが、自国開催の[[パリオリンピック (1900年)]]において[[パリオリンピック (1900年) におけるクリケット競技|クリケット競技]]が唯一行われており、イギリス代表と対戦している。
 
== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[安達功]]|date=2001年11月|title=知っていそうで知らないフランス──愛すべきトンデモ民主主義国|publisher=[[平凡社]]〈平凡社新書〉|isbn=4-582-85114-2|ref=安達(2001)}}
* {{Cite book|和書|author=[[梅本洋一 (映画評論家)|梅本洋一]]、[[木下長宏]]、[[大里俊晴]]編|date=2000年4月|title=現代フランスを知るための36章|publisher=[[明石書店]]|isbn=4-7503-1281-9|ref=梅本、木下、大里(2000)}}
* {{Cite book|和書|author=[[小倉孝誠]]|date=2008年5月|title=パリとセーヌ川──橋と水辺の物語|publisher=[[中央公論社]]〈中公新書〉|isbn=4-12-101947-4|ref=小倉(2008)}}
* {{Cite book|和書|author=[[紅山雪夫]]|date=2008年5月|title=フランスものしり紀行|publisher=[[新潮社]]〈新潮文庫〉|isbn=4-10-104327-2|ref=紅山(2008)}}
* [[ピエール・ガクソット]]『フランス人の歴史』全3巻、[[みすず書房]]。
* {{Cite book|和書|author=[[小田中直樹]]|date=2005年2月|title=フランス7つの謎|publisher=[[文藝春秋]]〈文春新書〉|isbn=4-16-660427-9|ref=小田中(2005)}}
* {{Cite book|和書|author=[[篠沢秀夫]]|date=2002年1月|title=フランス三昧|publisher=[[中央公論社]]〈中公新書〉|isbn=4-12-101624-6|ref=篠沢(2002)}}
* {{Cite book|和書|author=[[柴田三千雄]]|date=2006年5月|title=フランス史10講|publisher=[[岩波書店]]〈岩波新書〉|isbn=4-004-31016-4|ref=柴田(2006)}}
* {{Cite book|和書|author=[[ミュリエル・ジョリヴェ]]/[[鳥取絹子]]訳|date=2003年4月|title=移民と現代フランス──フランスは「住めば都」か|publisher=[[集英社]]〈集英社新書〉|isbn=4-08-720189-9|ref=ジョリヴェ/鳥取(2003)}}
* {{Cite book|和書|author=[[関谷一彦]]、[[細身和志]]、[[山上浩嗣]]編著|date=2004年10月|title=はじめて学ぶフランス──関西学院大学講義「総合コースフランス研究」より|publisher=関西学院大学出版会|isbn=|ref=関谷、細身、山上(2004)}}
* {{Cite book|和書|author=[[平野千果子]]|date=2002年2月|title=フランス植民地主義の歴史|publisher=[[人文書院]]|isbn=4-409-51049-5|ref=平野(2002)}}
* {{Cite book|和書|author=[[福井憲彦]]編|date=2001年8月|title=新版世界各国史12──フランス史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41420-1|ref=福井編(2001)}}
* [[アンドレ・モロワ]]『フランス史』上・下、新潮社〈新潮文庫〉。
* アンドレ・モロワ『フランス革命』読売新聞社、1950年。
* {{Cite book|和書|author=[[山田文比古]]|date=2005年9月|title=フランスの外交力|publisher=[[集英社]]〈集英社新書〉|isbn=4-08-720310-7|ref=山田(2005)}}
 
== 関連項目 ==
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* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/france/ 日本外務省 - フランス] {{ja icon}}
* [http://www.fr.emb-japan.go.jp/jp/ 在フランス日本国大使館] {{ja icon}}
 
; 観光
* [http://jp.rendezvousenfrance.com/ フランス観光開発機構(旧称・政府観光局)] {{ja icon}}
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; その他
* [http://www.jetro.go.jp/world/europe/fr/ JETRO - フランス] {{ja icon}}
* [http://meteo.15.growiktionary.org 天気予報]
*[http://www.ndl.go.jp/france/index.html 近代日本とフランス] - 国立国会図書館
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