「ガンビーノ一家」の版間の差分

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==形成期==
===パレルモ派閥===
===ダキーラとミネオ===
アル・ミネオの組織も1928年ミネオが継いだとされる[[トト・ダキーラ]]の組織も、実態不明な点が多い。トト・ダキーラはシチリアのパレルモ市出身で、1906年に渡米し、1910年代にかけてコルレオーネ系の[[モレロ一家]]の一派閥ないしパートナーとして頭角を現した。1910年にモレロ一家のリーダー、[[ジュゼッペ・モレロ]]が監獄送りになった時、「ボスの中のボス」を宣言し、モレロ一家残党と抗争した<ref>[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Salvatore%20D-Aquila Salvatore D-Aquila] La Cosa Nostra Database</ref>。1920年モレロが出所した時も抗争が勃発し、モレロ一家や[[ジョー・マッセリア]]を相手にガンファイトを展開した[[ウンベルト・ヴァレンティ]]の背後にダキーラがいたとされる。1928年、ダキーラはマッセリア派に殺害された。
 
アル・ミネオはダキーラと同じくパレルモ出身で、1911年シチリアより渡米し、19101912摘発されたモレロ仲間の証言により、アメリカ移住当初から派閥を率いていたらしいことが判明したが<ref>[http://www.gangrule.com/events/struggle-for-control-1914-1918 The Struggle for Control - The Gangs of New York]</ref>、1928年にダキーラの後継者として突然出現するまでの17年間、歴史の舞台から消えている<ref>[http://mafiamembershipcharts.blogspot.jp/2014/03/the-mysterious-mr-mineo.html The Mysterious Mr. Mineo]</ref>。ミネオは、マッセリアがダキーラ勢力を支配するために置いた傀儡とも言われボスだったが、その後の[[カステランマレーゼ戦争]]ではマッセリア軍団の中核として屈強な兵隊を提供した<ref>[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Al%20Mineo Al Mineo] La Cosa Nostra Database</ref>。
 
===カステランマレーゼ戦争と五大ファミリー再編===
1930年11月、アル・ミネオはマッセリア派幹部の作戦会議に現れたところをカステランマレーゼ陣営の暗殺チームにより銃殺された。カステランマレーゼ指導者[[サルヴァトーレ・マランツァーノ]]から支援を受けていた反マッセリアの[[フランク・スカリーチェ]](旧ダキーラ派)が組織を奪い返した。スカ

1931年4月、マッセアとの戦いに勝利し、ニュチェはヨークのマフィア勢力を5つに整理したマランツァーノよりは、スカリーチェをあらためて旧ダキーラ・ファミリーのボスに任命した。そから半年後の同年9月にマランツァーノを暗殺しが、ラッキー・ルチアーノの五大ファミリー再編では、スカリーチェはボスの座を降ろされ、ヴィンセント・マンガーノに取って代わった<ref name="b">[http://www.onewal.com/maf-b-ny.html THE AMERICAN MAFIA - Crime Bosses of New York]</ref>。ダキーラから、ミネオ、スカリーチェ、マンガーノ、一代はさんで[[カルロ・ガンビーノ]]までの全員がパレルモ市出身のパレルモ派閥である。モレロ一家、レイナ一家などのコルレオーネ派閥、カステランマレーゼ派閥と対置される。
 
===ナポリ系・カラブリア系勢力の流入===
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==五大ファミリー再編後==
===権力闘争マンガーノ一家===
1931年のルチアーノによる五大ファミリー再編で、マンガーノがボスとなり、副ボスにアナスタシアを据えて再スタートを切った。両者ともユダヤ系ギャングとの合同組織[[マーダー・インク]]の幹部となり、暗黒街の反逆者や裏切り者の処刑業務に関与した<ref name="a"/>。1933年禁酒法が終了し、一家は酒の密輸に代わる収入源を、組合ゆすりや高利貸し、宝くじやナンバーズ賭博などの違法ギャンブルに求めた。ブルックリンの臨海区の港湾組合を支配しキックバックやピンハネで巨額の金を吸い上げ、船の入出港を仕切って貨物の横流しや転売で儲けた<ref>[http://www.onewal.com/a009/f_albertanastasiap04.html King of the Brooklyn Docks - Albert Anastasia (1902-1957) - Steps Toward Legitimacy]</ref>。1940年代初頭、[[エイブ・レルズ]]の密告によりーダーイガーノは、ボス自分を差し置いて組織横断的処刑業務他の一家の面々と付き合う副ボスの深く関わったアナスタシアを苦々しく思いに捜査が及ぶが口論盟友[[フランク・コステロ]]絶えなかったという。時に取っ組み合いの喧嘩裏で手起こたともい、救われた。
 
マンガーノはアナスタシアと、臨海組合の勢力拡張や政敵排除を通じ20年以上タッグを組んでいたが、次第にボスの自分を差し置いて他のファミリー幹部に便宜を図るアナスタシアを忌み嫌うようになり、口論が絶えなくなった。時に取っ組み合いの喧嘩を起こしたともいわれた。
 
===アナスタシアの権力奪取===
[[1951年]]4月、マンガーノは行方不明になり、同時にマンガーノの弟で一家の相談役だったフィリップ・マンガーノは沼地で銃殺死体で発見された。アナスタシアはマンガーノが自分を殺そうとしたと釈明したが、殺害は否定した。両方ともアナスタシアが殺したと広く信じられている<ref name="b"/>。コステロ一家(現ジェノヴェーゼ一家)のボス、[[フランク・コステロ]]はアナスタシアの掟破りのボス殺しを事前に了解していたとされる。コステロはアナスタシアを一家のボスに据えて味方陣営を固め、ボスの座を狙う[[ヴィト・ジェノヴェーゼ]]を牽制したと噂された。アナスタシアは副ボスに古参フランク・スカリーチェを据え、独裁的た。スカリーチェの副ボス抜擢は傘下抱えシチリア勢力を懐柔する意味合いがあたとされる。この時代、ファミリー上層部が小遣い稼ぎにメンバーシップを乱発し、組織が膨張した。このメンバーシップの乱発はオメルタに触れ、スカリーチェが責任を取らされ、1957年6月に粛清された。
 
===理髪店の虐殺===
その後、ファミリーはジェノヴェーゼの権力闘争に巻き込まれる。1957年5月、ジェヴェーゼは手下の[[ヴィンセント・ジガンテ]]にコステロを狙撃させ、かすり傷を負わせるにとどまったが、コステロに組織からの引退を決意させた。ジェノヴェーゼはアナスタシアの報復を恐れ、スカリーチェを継いで副ボスになっていた[[カルロ・ガンビーノ]]を抱き込んでアナスタシア暗殺を共謀した。1957年10月25日、アナスタシアはマンハッタンのパーク・シェラトンホテルの理容室で2人組に銃撃され即死した。マフィア史上最も有名なアナスタシア暗殺事件の実行犯は一般に[[コロンボ一家|プロファチ一家]]のギャロ兄弟と信じられているが、フロリダの[[サント・トラフィカンテ]]の一味という説もある<ref>[http://www.onewal.com/a009/f_albertanastasiap06.html King of the Brooklyn Docks - Albert Anastasia (1902-1957) - Whodunnit?]</ref>。
 
アナスタシア暗殺はジェノヴェーゼとガンビーノの共謀というのが定説だが、マンガーノ兄弟、スカリーチェ兄弟と相次いでシチリア人を殺したアナスタシアに対する、ファミリーの垣根を越えたシチリアマフィア総出の復讐とする説もある<ref>[http://mafiamembershipcharts.blogspot.jp/2016/02/bios-of-early-gambino-members-1930-50s.html SCALICI-GIUSEPPE] Mafia Membership Charts</ref>。
[[1951年]]4月、マンガーノは行方不明になり、同時にマンガーノの弟で一家の相談役だったフィリップ・マンガーノは沼地で銃殺死体で発見された。アナスタシアはマンガーノが自分を殺そうとしたと釈明したが、殺害は否定した。両方ともアナスタシアが殺したと広く信じられている<ref name="b"/>。コステロ一家(現ジェノヴェーゼ一家)のボス、[[フランク・コステロ]]はアナスタシアの掟破りのボス殺しを事前に了解していたとされる。コステロはアナスタシアを一家のボスに据えて味方陣営を固め、ボスの座を狙う[[ヴィト・ジェノヴェーゼ]]を牽制したと噂された。アナスタシアは副ボスに古参フランク・スカリーチェを据え、独裁的に振る舞った。
 
===ガンビーノのマフィア外交===
その後、ファミリーはジェノヴェーゼの権力闘争に巻き込まれる。1957年5月、ジェヴェーゼは手下の[[ヴィンセント・ジガンテ]]にコステロを狙撃させ、かすり傷を負わせるにとどまったが、コステロに組織からの引退を決意させた。ジェノヴェーゼはアナスタシアの報復を恐れ、スカリーチェを継いで副ボスになっていた[[カルロ・ガンビーノ]]を抱き込んでアナスタシア暗殺を共謀した。1957年10月25日、アナスタシアはマンハッタンのパーク・シェラトンホテルの理容室で2人組に銃撃され即死した。マフィア史上最も有名なアナスタシア暗殺事件の実行犯は一般に[[コロンボ一家|プロファチ一家]]のガロ兄弟と信じられているが、フロリダの[[サント・トラフィカンテ]]の一味という説もある<ref>[http://www.onewal.com/a009/f_albertanastasiap06.html King of the Brooklyn Docks - Albert Anastasia (1902-1957) - Whodunnit?]</ref>。
ボスの座なっ就いたガンビーノはジェノヴェーゼの傀儡におさまらず、子供同士が結婚して血縁関係にある[[トーマス・ルッケーゼ]]と組んでマフィア外交を開始した。最大のライバル・ジェノヴェーゼを[[マイヤー・ランスキー]]、[[フランク・コステロ]]らと組んで[[麻薬]]取引の罪で逮捕収監させる陰謀に成功し、さらにプロファチ一家のボスには傀儡の[[ジョゼフ・コロンボ]]を据えた。[[ボナンノ一家]]に対してはその古参幹部の不満を利用して内部分裂を起こさせ、ボスの[[ジョゼフ・ボナンノ]]を引退に追い込んだ。一家内ではアナスタシアの忠実な部下だった[[アニエロ・デラクローチェ]]を副ボスに抜擢し、アナスタシア派の懐柔と監視の両方の役目を与え、組織の分裂を防いだ。1967年ルッケーゼの死亡後、そのガーメント地区の組合利権を乗っ取った。一家は拡大を続け、構成員は正式メンバー以外の関係者を含めると数千人に達し、テリトリーはニュージャージ、カリフォルニア、バルティモア、フロリダ、コネチカットまで及んだ。[[1976年]]のガンビーノの死までに、ファミリーは[[ジェノヴェーゼ一家]]に代わってニューヨーク最強のファミリーとなった<ref name="b"/>
 
ファミリー内では旧アナスタシア派の粛清を行なったが、アナスタシア派で人望の厚かった[[アニエロ・デラクローチェ]]を副ボスに抜擢し、アナスタシア派の懐柔と監視の両方の役目を与え、組織の分裂を防いだ。1967年ルッケーゼの死亡後、そのガーメント地区の組合利権を乗っ取った。一家は拡大を続け、構成員は正式メンバー以外の関係者を含めると数千人に達し、テリトリーはニュージャージ、カリフォルニア、バルティモア、フロリダ、コネチカットまで及んだ。[[1976年]]のガンビーノの死までに、ファミリーは[[ジェノヴェーゼ一家]]に代わってニューヨーク最強のファミリーとなった<ref name="b"/>。
===ガンビーノ===
ボスになったガンビーノはジェノヴェーゼの傀儡におさまらず、子供同士が結婚して血縁関係にある[[トーマス・ルッケーゼ]]と組んでマフィア外交を開始した。最大のライバル・ジェノヴェーゼを[[マイヤー・ランスキー]]、[[フランク・コステロ]]らと組んで[[麻薬]]取引の罪で逮捕収監させる陰謀に成功し、さらにプロファチ一家のボスには傀儡の[[ジョゼフ・コロンボ]]を据えた。[[ボナンノ一家]]に対してはその古参幹部の不満を利用して内部分裂を起こさせ、ボスの[[ジョゼフ・ボナンノ]]を引退に追い込んだ。一家内ではアナスタシアの忠実な部下だった[[アニエロ・デラクローチェ]]を副ボスに抜擢し、アナスタシア派の懐柔と監視の両方の役目を与え、組織の分裂を防いだ。1967年ルッケーゼの死亡後、そのガーメント地区の組合利権を乗っ取った。一家は拡大を続け、構成員は正式メンバー以外の関係者を含めると数千人に達し、テリトリーはニュージャージ、カリフォルニア、バルティモア、フロリダ、コネチカットまで及んだ。[[1976年]]のガンビーノの死までに、ファミリーは[[ジェノヴェーゼ一家]]に代わってニューヨーク最強のファミリーとなった<ref name="b"/>。
 
===ガンビーノ後===