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同年12月、豊州家を圧迫し、交渉により飫肥の一部を割譲させると、永禄5年([[1562年]])5月には完全なる領有に成功する。しかし、同年9月に豊州家に攻められると、ほんの4か月で撤退することとなった。
 
そして永禄11年([[1568年]])1月9日、義祐自ら総勢2万と号する大軍を率いて飫肥城を攻撃。[[島津忠親]]が守る[[飫肥城]]を約五ヶ月間にわたり包囲し、また援軍として出陣した[[北郷時久]]の軍を小越の戦いにおいて撃破([[第九飫肥役]])。この大敗を受けて同年5月、[[島津貴久]]は義祐との和睦を決定した。その結果、[[大国]][[肝付氏]]と豊州家の領土を分け合う形で永禄12年([[1569年]])に飫肥を知行。こうして[[島津氏]]を政治的に圧倒し、日向国内に48の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げたのである([[伊東四十八城]])。
 
勢い盛んな義祐は次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原(現[[宮崎県]][[宮崎市]][[佐土原町]])は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど発展していくが、義祐の武将としての覇気は失われていった。