「メドウェイ川襲撃」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 曖昧さ回避ページへのリンクを付け替え(ポンドスターリング・ポンド
編集の要約なし
5行目:
| caption = オランダの襲撃を受けるイングランド艦
| date = [[1667年]][[6月9日]] - [[1667年]][[6月14日]]
| place = イングランド、[[チャタム (イングランド)|チャタム]]近郊
| coordinates = {{ウィキ座標2段度分秒|51|22|51.4|N|0|31|19.6|E|region:GB|display=inline,title}}
| casus =
46行目:
1667年、{{仮リンク|ウィレム・ヨゼフ・ファン・ゲント|en|Willem Joseph van Ghent}}の戦隊が[[スコットランド王国|スコットランド]]に攻め入ったがイングランドは無抵抗だった。これを好機と見たオランダは、まずヨハン・デ・ウィットが作戦を立て、この作戦の監督役に兄の[[コルネリス・デ・ウィット|コルネリス]]を任命し<ref name=military/>、[[6月4日]](グレゴリオ暦では19日から24日)<ref name=history/>に[[ミヒール・デ・ロイテル]]の艦隊が[[スヘルデ川]]河口のスクーネヴェルト泊地を出て[[テムズ川]]河口へ進み、2日後の[[6月6日|6日]]に増強部隊が加わり、軍艦64隻や火船15、将兵17,416の大艦隊となった<ref name=KB/>。チャールズ2世にも[[諜報員]]からの警告があったが、国王は防御を強化するための努力をしなかった<ref name=military/>。
 
それでも[[6月8日|8日]]、チャールズ2世はオックスフォード伯[[オーブリー・ド・ヴィアー (第20代オックスフォード伯)|オーブリー・ド・ヴィアー]]([[:en:Aubrey de Vere, 20th Earl of Oxford|en]])に命令して[[民兵]]を動員させ、テムズ川に船で橋を架けるようにさせた<ref name=military/>。メドウェイ川の防御も貧弱で<ref name=history/>、9日早朝、ゲントの戦隊がメドウェイ川の{{仮リンク|シェアネス|en|Sheerness}}の砦を砲撃したため、アルベマール公[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]は<ref name=KB/>[[チャタム (イングランド)|チャタム]]に向かって<ref name=military/>砲台を築き、ジリンガムの近くのメドウェイ川に[[閉塞船]]を沈めて、その上流に鎖を渡した<ref name=KB/>。ここでは30隻の[[ピンネース]]が火船を防ぐために待機していた<ref name=history/>が、停泊艦はほとんどが大砲を外していたため、戦闘に使えなかった<ref name=KB/>。[[6月12日|12日]]、オランダ艦隊はメドウェイ川に到着した。オランダの攻撃は9日に始まっていたのだが、テムズ川を上がるのに時間がかかっていた<ref name=history/>。
 
[[File:MedwayRaidMap.png|thumb|250px|left|襲撃の際のオランダ軍の進路を示す地図]]