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====日本での栽培史====
[[Image:ikkanshu.jpg|right|thumb|日本種(一貫種、もしくは三島種)]]
日本では、[[室町時代]]に[[南蛮貿易]]によってケシの種が[[インド]]から[[津軽]]地方(現在の[[青森県]])にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある<ref>伊澤一男『薬草カラー図鑑』「ケシ」。</ref>。その後現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで少量が産出されがいずれも少量で高価であり、用途も医療用に限られていた。
 
明治の半ば、大阪府の農民[[二反長音蔵]]がケシ栽培を政府に建白、地元の大阪府[[三島郡]]で大規模生産に乗り出すとともに、品種改良に尽力し、モルヒネ含有量が既存種の数倍に達する一貫種と呼ばれる優良品種を作出した。日本は[[台湾]]統治開始後、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知り、40年をかけった。[[台湾総督府]]衛生顧問だった[[後藤新平]]は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、最終的に40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させている。一方で[[台湾総督府]]衛生顧問だった[[後藤新平]]内地では二反長音蔵のケシ栽培を積極的に後援し、日本国内のアヘンの生産と台湾輸出・販売を[[台湾総督府]]の[[専売制]]として独占し、莫大な利益を得た。1935年頃には全国作付けが100haに達し5月の開花期には広大なケシ畑に雪白の花が広がり、非常な壮観を呈した。当時のアヘン年間生産量は15tに達した。当時全国産額の50%は和歌山県有田郡で、40%が大阪府三島郡がそれぞれ占めた。
 
昭和に入ると日本は戦前[[朝鮮]]や[[満洲]]の一部([[熱河省]]。現在の[[河北省]]、[[遼寧省]]、[[内モンゴル自治区]]の一部)でケシ栽培を奨励し、[[第二次大戦]]中は[[満洲国]]、[[蒙古聯合自治政府]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]などで大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけ戦費を調達した<ref>{{cite web|author= NHKスペシャル|title=調査報告 日本軍と阿片 |accessdate=Aug 17, 2008|url=http://www.nhk.or.jp/special/detail/2008/0817/}}</ref>。