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原綴の一部にIPAを追加。隊員の民族構成比率を追加。ハンガリー語の呼称を追加。
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'''セクリターテ''' ({{lang-ro|Securitate}} {{IPA|sekuriˈtaˑte}}) または定冠詞を付けた形で'''セクリターテア''' ({{lang-ro|Securitatea}} {{IPA|sekuriˈtaˑte̯a}}) とは、[[ルーマニア社会主義共和国]]の[[秘密警察]]。組織上は内務省の傘下にあり、正式名称は'''国家保安局'''({{lang|ro|Departamentul Securităţii Statului}})であった。一般的にルーマニア語以外では定冠詞を付けない {{lang|ro|Securitate}} の形で広まっている。ルーマニア在住のハンガリー人達(専らルーマニアに割譲された[[トランシルヴァニア]]に居住するルーマニア国籍となっている少数民族)はセクリターテの隊員をハンガリー語で警察官の俗語である「ヘクシュ」({{lang-hu|hekus}} {{IPA|ˈhekuʃ}}) とハンガリー語化された「セクリターテー」({{lang-hu|szekuritáté}} {{IPA|ˈsekuritɑ̈ːte̝ː}}) を掛け合わせて「セクシュ」({{lang-hu|szekus}} {{IPA|ˈsekuʃ}}) と呼んでいた。
'''セクリタテア'''([[ルーマニア語]]:Securitatea)とは、[[ルーマニア社会主義共和国]]の[[秘密警察]]。組織上は内務省の傘下にあり、正式名称は'''国家保安部'''(Departamentul Securităţii Statului)であった。
 
==特徴==
セクリタの特徴は、メンバーが主として国営の[[孤児院]]出身者から構成されていたことであり、一般住民との接触はかなり制限されていた。「優秀な子供」として選ばれた孤児たちは、洗脳と特殊訓練を受けてセクリタへと育てられた。ルーマニア社会主義共和国は、この組織の下で徹底的な監視社会となり、「街中のカフェやレストランには必ず盗聴器が仕掛けられていた」と言われている程である。
 
セクリタの主要任務としては、防諜、反体制派対策、[[ニコラエ・チャウシェスク]]大統領と側近の個人警護を担当していた。その外、ルーマニアには純粋な対外諜報機関である参謀本部情報局と対外情報部(Departamentul({{lang|ro|Departamentul de Informatii Externe}}、略称DIE){{lang|ro|DIE}})が存在したにも拘らず、国外でも活動していた。国外でも秘密作戦(反体制派の除去など)のために、セクリタには「コンドル」グループが存在した。
 
== 歴史 ==
セクリタは、[[1945年]]以前の代表的な[[秘密警察]]である「[[特別高等警察|特高警察]]」「[[ゲーペーウー]]」「[[ゲシュタポ]]」のルーマニア版である。
 
;1945年~1965年
創立者は、[[ソビエト連邦]]の協力者であった[[ジョルジェスク]]である。[[ルーマニア社会主義共和国]]が立てられた1945年から、[[ニコラエ・チャウシェスク]]が[[ルーマニア共産党]]書記長に就任する[[1965年]]までは、セクリタは「反革命分子だ」「政府の敵だ」と称して民主主義勢力を大規模に弾圧した。
 
[[1948年]][[8月30日]]に全国人民保安庁 ({{lang|ro|Direcția Generală a Securității Poporului}} - {{lang|ro| DGSP}}) が設立された。設立時の職員の民族構成は、総勢3,973 人の内、ルーマニア人 3,334人 (83.92%)、ユダヤ人 338人 (8.51%)、ハンガリー人 247人 (6.22%)、ロシア人 24人 (0.60%)、ユーゴスラビア人 13人 (0.33%)、ドイツ人 5 人 (0.13%)、チェコ人 5人 (0.13%)、アルメニア人 3人 (0.08%)、ブルガリア人 3人 (0.08%)、イタリア人 1人 (0.03%) であった。
1960年代~1970年代、[[スペイン]]で「グレナダ」という渾名(あだな)を得た[[ワシレ・ゲオルゲ]]がジョルジェスクの後を継ぎ、ゲオルゲは反体制派の尋問(拷問)に個人的に参加すらしていた。その後、ディンク、ヴラダ、ボブ、ポステルニク、ドラギチがセクリタテアの長官となった。
 
1960年代~1970年代、[[スペイン]]で「グレナダ」という渾名(あだな)を得た[[ワシレ・ゲオルゲ]]がジョルジェスクの後を継ぎ、ゲオルゲは反体制派の尋問(拷問)に個人的に参加すらしていた。その後、ディンク、ヴラダ、ボブ、ポステルニク、ドラギチがセクリタの長官となった。
 
;1965年~1989年
[[ニコラエ・チャウシェスク]]が共産党書記長に就任した1965年以後は、セクリタの猛威は一層強まった。
 
チャウシェスク政権は、ルーマニアの全土に[[盗聴]]器を設置して、民衆を恐怖に陥れた。又、孤児たちを洗脳してセクリタのメンバーにする一方で、全国の[[小学校]]にも授業時間にセクリタのメンバーを間諜として送り込み、チャウシェスク政権への不平や不満を政府に報告していた。
 
===崩壊後===
[[1989年]]12月の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]の時にはセクリタのメンバーはチャウシェスク擁護に立ち、[[ブカレスト]]では[[救国戦線]]軍に立った[[ルーマニア共産党|共産党]]軍兵士との間に銃撃戦が発生した。
 
[[ニコラエ・チャウシェスク]]が殺されて[[ルーマニア社会主義共和国]]が倒され、民主国家が立てられた直後のルーマニアでは、[[東欧革命|民主化]]後の[[東ヨーロッパ]]で最も苛烈な[[非共産化|脱共産化]](旧共産党国家の政府関係者への弾圧)が行われ、「[[民主主義]]の敵だ」として民衆によってリンチ、殺害された共産党関係者も多かった。元セクリタ長官のディンク、ヴラダ、ポープ、セクリタの職員だった[[ニク・チャウシェスク]](ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男)など、数百人の元セクリタのメンバーが裁判にかけられた。最後の長官であるドラガッチャは、[[ハンガリー|ハンガリー第三共和国]]に亡命した。
 
また、民主政体下([[1990年]]以後)で施行された法律により、元セクリタのメンバーに対して公職禁止が布かれた。元セクリタのメンバーは、[[イスラエル]]の特務機関で働くか、極右民族主義政党「[[大ルーマニア党]]」に避難したり、または裏の犯罪組織に入ったと考えられている。元メンバーのドゥミトレスクは、[[ドイツ]]でルーマニア・ジプシー・マフィア「親衛隊」を率い、かつての同僚を引き込んでいた。また、セクリタに育成途中だった子供たちの多くは、他の孤児同様に『チャウシェスクの子供たち』と呼ばれる[[ストリートチルドレン]]になったと言われている。
 
== 機構 ==