「マリオ・ケンペス」の版間の差分

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== 来歴 ==
=== 選手 ===
==== クラブ経歴 ====
父親のマリオもサッカー選手であった。7歳の時にジュニアチームでサッカーを始め、14歳の時に地元の[[タジェレス・デ・コルドバ]]の下部組織に加わった。1971年、[[インスティトゥートACコルドバ]]からデビューし、[[オズワルド・アルディレス]]などとともにプレー。1974年に[[CAロサリオ・セントラル]]に移籍し、同年には[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]]で25得点を挙げて得点王に輝いた。セントラルでは105試合で85得点を記録して傑出したゴールスコアラーとしての地位を確立した。1976年に[[リーガ・エスパニョーラ]]の[[バレンシアCF]]に移籍し、1976-77シーズン(24得点)と1977-78シーズン(28得点)には2シーズン連続で[[ピチーチ賞]](得点王)のタイトルを獲得した。スペインでの活躍や1978 FIFAワールドカップでの活躍などから、1978年にはベネズエラのエル・ムンド誌が選出する[[南米年間最優秀選手賞]]を受賞した。1978-79シーズンには[[コパ・デル・レイ]]で優勝し、1979-80シーズンには[[UEFAカップウィナーズカップ 1979-80|UEFAカップウィナーズカップ]]で優勝。1980年には[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]王者の[[ノッティンガム・フォレストFC]](イングランド)を破って[[UEFAスーパーカップ]]のタイトルも獲得した。1981年には母国の[[CAリーベル・プレート]]に移籍したが、再びスペインに戻ってバレンシアと[[エルクレスCF]]でプレー。30代となってからは[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリアン・ブンデスリーガ]]のクラブに在籍した。1992年にいったん現役引退したが、1995年に現役復帰して1996年までプレーした。
 
==== 代表経歴 ====
[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]としては43試合に出場して20得点し、[[1974 FIFAワールドカップ]]、[[1978 FIFAワールドカップ]]、[[1982 FIFAワールドカップ]]の3回の[[FIFAワールドカップ]]に出場した。
 
1973年9月23日、[[サッカーボリビア代表|ボリビア]]戦でアルゼンチン代表デビュー。20歳だった1974年には西ドイツで開催された1974 FIFAワールドカップに出場したが、6試合出場無得点であった。1978年には[[セサル・ルイス・メノッティ]]監督によって母国開催の1978 FIFAワールドカップのメンバーに選出されたが、アルゼンチン国外でプレーする選手はケンペス(スペインのバレンシア所属)ただひとりであった。メノッティ監督は、メンバー発表の際にケンペスを「彼は屈強で、技術があり、スペースを作るのが巧みで、強烈なシュートを放てる。違いを生み出せる選手であり、センターフォワードのポジションでプレーできる」と表現した。[[サッカーイタリア代表|イタリア]]、[[サッカーフランス代表|フランス]]、[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]と同組となった1次リーグでは無得点に終わったが、[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]、[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]、[[サッカーペルー代表|ペルー]]と同組となった2次リーグでは、ポーランド戦とペルー戦でそれぞれ2得点し、首位で決勝に進出。ポーランド戦では手を使って失点を阻止し、ポーランドにPKが与えられたが、[[ウバルド・フィジョール]]がPKをセーブして失点を免れた<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=50/results/matches/match=2202/report.html 1978 World Cup Match Report - Argentina - Poland] FIFA.com</ref>。決勝の[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦 (3-1) は前半に先制点を挙げ、試合は延長にもつれ込んだが、105分に持ち前のドリブルから決めた得点が決勝点となった<ref name="sanspo" />。この大会では6得点を挙げて得点王と大会最優秀選手賞を受賞し、アルゼンチンの初優勝に大きく貢献した。1982年にスペインで開催された[[1982 FIFAワールドカップ]]では5試合に出場したが、大会後は代表に選出されることもなくなった。
 
=== 指導者経歴 ===
1993年には、古巣[[バレンシアCF]]で[[エクトル・ヌニェス]]監督のアシスタントコーチを務め、1996年には[[リーガ・インドネシア]]の{{仮リンク|マドゥーラ・ユナイテッドFC|label=ペリタ・ジャワFC|en|Madura United F.C.}}で選手兼任監督を務めた。初めて常勤の監督に就任したのは[[カテゴリア・スペリオレ|アルバニア・サッカーリーグ]]のSKルシューナである。短期間の采配期間ではあったが、アルバニアのサッカー史上初の外国人監督となったほか、アルバニアで初めて外国人選手と契約した監督となり、先駆者として名を残した。1997年には[[ベネズエラ]]の{{仮リンク|ACCDミネロス・デ・グアヤナ|es|Club Deportivo Mineros de Guayana}}監督に就任。1999年にはボリビアの[[ザ・ストロンゲスト]]の監督となり、2000年には同じボリビアの[[クラブ・ブルーミング]]の指揮を執った。