「八木・宇田アンテナ」の版間の差分

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また、八木・宇田連名の英文論文の前後に、日本語で発表された「短波長ビームに就て」の一連の論文(序文を含めて計12編)は、全て宇田単独名であった。こうした状況にも拘わらず、国内外の[[特許]]出願が八木の単独名で出されたため、[[大日本帝国|日本]]国外の人々には {{lang|en|“Yagi antenna”}} として知られることとなる。後述するように日本では日本国外からの情報により八木・宇田アンテナが注目されるようになった経緯もあって、後年日本国内でも、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきであり「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し<ref>虫明康人「[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm]旧論文の内容誤認による電気技術史の不当な歪曲を正す」電気学会電気技術史研究会資料 HEE-96-15、1996年9月11日。]</ref>、最近の学術書その他では八木・宇田アンテナと記述されている<ref>[[岡部金治郎]]が執筆し、[[共立出版]]から'''1965年'''に発行された『新しい電子工学』では、既に「''八木-宇田アンテナ(俗称八木アンテナ)''」と記述されている(p.10)。また、[[前田憲一]]が執筆し、共立出版から'''1959年'''に発行された『電波工学』では、「''いわゆる八木・宇田アンテナ(または単に八木アンテナともいう)''」と記述されている(p.91)。</ref><ref>宇田の墓の、墓誌には八木・宇田アンテナの意匠が掘り込まれている。詳しくは[[宇田新太郎]]を参照。</ref><ref>[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.tomb.takuhon.htm 宇田家 墓誌の拓本]</ref>。元来、発明者名から宇田を外して取得した八木特許<ref>[http://www.sm.rim.or.jp/%7Eymushiak/sub.uda.htm###% 八木特許]</ref>は、現在の社会では容認されないような特許<ref>虫明康人[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.pate.htm 特許出願と論文発表 ]</ref>であると批判されても止むを得ない。なお、八木・宇田両名の発明についての情報は、外国では上述の連名英文論文(1926)<ref>H. Yagi and S. Uda: “Projector of the Sharpest Beam of Electric Waves,” Proc. Imperial Academy of Japan, February 1926. pp. 49-52.</ref>と宇田単独名の一連の論文に基づいているのに対し、日本国内では専門外のフィクション作家の著書(1992)の内容による情報<ref>[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.uda.htm 内容誤認]</ref>であったため、誤りが生じて混乱した状況になっていたが、最近ようやく正しい情報が認識されるようになった。
 
[[欧米]]の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用して[[レーダー]]の性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。しかし、八木アンテナ開発当時の[[1920年代]]には、大日本帝国の学界や[[日本]]では、敵を前にして電波を出すなど暗闇に[[ちょうちん]]を灯して、自分の位置を知らせるも同然だと考えられ、重要な発明とみな見做されていなかった。このことをあらわす逸話として、[[1942年]]に[[日本軍]]が[[シンガポールの戦い]]で[[イギリス]]の[[植民地]]であった[[シンガポール]]を[[占領]]し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには[[捕虜]]の[[イギリス軍|イギリス兵]]に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した[[日本人]]の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている<ref>[http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/electronics/010.html#top テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史] エレクトロニクス立国の源流を探る 週刊BEACON]</ref>
 
このことをあらわす逸話として、[[1942年]]に[[日本軍]]が[[シンガポールの戦い]]で[[イギリス]]の[[植民地]]であった[[シンガポール]]を[[占領]]し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには[[捕虜]]の[[イギリス軍|イギリス兵]]に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した[[日本人]]の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている<ref>[http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/electronics/010.html#top テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史] エレクトロニクス立国の源流を探る 週刊BEACON]</ref>。
シンガポール占領から約4カ月後の[[ミッドウェイ海戦]]において、米軍は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、日本の連合艦隊に大損害を与えた<ref>[[高山正之]]『変見自在 サダム・フセインは偉かった』[[新潮社]] ISBN 9784103058717・[[新潮文庫]]: ISBN 978-4-10-134590-1</ref>。さらに後には[[アメリカ軍]]が[[広島市|広島]]と[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾]]を[[日本への原子爆弾投下|投下]]した際にも、最も爆発の領域の広がる場所を特定するために八木の技術を用いた受信機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などでアンテナの利用を確認できる。
 
シンガポール占領から約4カ月後の[[ミッドウェイ海戦]]において、[[アメリカ]]は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、[[大日本帝国海軍]]の連合艦隊に大損害を与えた<ref>[[高山正之]]『変見自在 サダム・フセインは偉かった』[[新潮社]] ISBN 9784103058717・[[新潮文庫]]: ISBN 978-4-10-134590-1</ref>。さらに後には[[アメリカ軍]]が[[広島市|広島]]と[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾]]を[[日本への原子爆弾投下|投下]]した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆発高度を特定するために八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などでアンテナの利用を確認できる。
[[ファイル:Рус–2.jpg|thumb|200px|反射器を持たない初期のレーダー用八木・宇田アンテナの例、[[ソビエト連邦]]の対空レーダー{{仮リンク|RUS-2|ru|РУС-2}}のイラスト。]]
なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、[[大日本帝国]]のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は[[1930年代]]後半に入って[[大日本帝國陸軍|日本陸軍]]が'''防空'''を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒[[レーダー#パルスレーダー|パルスレーダー]]である「超短波警戒機 乙」は、[[ナチス・ドイツ]]からの技術導入で開発された<ref>徳田八郎衛 『間に合わなかった兵器』 2007年、光人社NF文庫</ref>ものであり、アンテナには無指向性の[[テレフンケン]]型(箱型)と呼ばれるものや、[[ダイポールアンテナ]]が利用されていた。