「八木・宇田アンテナ」の版間の差分

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このことをあらわす逸話として、[[1942年]]に[[日本軍]]が[[シンガポールの戦い]]で[[イギリス]]の[[植民地]]であった[[シンガポール]]を[[占領]]し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には「送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわからなかった。ついには[[捕虜]]の[[イギリス軍|イギリス兵]]に質問したところ「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した[[日本人]]の名前だ」と教えられて驚嘆したと言われている<ref>[http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/electronics/010.html#top テレビ放送の始まりとテレビ技術発展の歴史] エレクトロニクス立国の源流を探る 週刊BEACON]</ref>。
 
シンガポール占領から約4カ月後の[[ミッドウェイ海戦]]において、[[アメリカ軍]]は八木アンテナを駆使して作戦を展開し、[[大日本帝国海軍]]の連合艦隊に大損害を与えた<ref>[[高山正之]]『変見自在 サダム・フセインは偉かった』[[新潮社]] ISBN 9784103058717・[[新潮文庫]]: ISBN 978-4-10-134590-1</ref>。さらに後には、[[アメリカ軍]]が[[広島市]]と[[長崎市]]に[[原子爆弾]]を[[日本への原子爆弾投下|投下]]した際にも、最も爆発の領域の広がる場所・爆撃機から投下した原子爆弾の核爆発高度を特定するために、八木アンテナの技術を用いた受信・レーダー機能が使われた。現在も両原爆のレプリカの金属棒の突起などで、アンテナの利用を確認できる。
[[ファイル:Рус–2.jpg|thumb|200px|反射器を持たない初期のレーダー用八木・宇田アンテナの例、[[ソビエト連邦]]の対空レーダー{{仮リンク|RUS-2|ru|РУС-2}}のイラスト。]]
なお、上記に書かれている日本軍での八木・宇田アンテナに対する認識や開発の遅れに関する「逸話」は、[[大日本帝国]]のレーダーの技術導入経路と、八木・宇田アンテナ自体の特性にも注視しなければより正確な認識が行えない事にも留意されたい。日本のレーダー開発は[[1930年代]]後半に入って[[大日本帝國陸軍|日本陸軍]]が'''防空'''を最大の目的に開始しているが、シンガポール戦の前年の1941年に開発された哨戒[[レーダー#パルスレーダー|パルスレーダー]]である「超短波警戒機 乙」は、[[ナチス・ドイツ]]からの技術導入で開発された<ref>徳田八郎衛 『間に合わなかった兵器』 2007年、光人社NF文庫</ref>ものであり、アンテナには無指向性の[[テレフンケン]]型(箱型)と呼ばれるものや、[[ダイポールアンテナ]]が利用されていた。
 
八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射される問題(バックローブ)があり、万一バックローブ側の電波で航空機(友軍機も含まれる)を探知してしまうと、測定結果が180度入れ替わって表示されるので正確な捕捉が行えない。また、水平方向を監視する哨戒レーダー、とりわけ艦船に設置する場合など、指向性と同時に電波発射元の秘匿も重視しなければならない用途では、英米でも[[戦後]]にならなければ八木・宇田アンテナを用いる事が出来なかった。前述の英軍の対空射撃レーダー({{仮リンク|GL Mk.IIレーダー|en|GL Mk. I radar}})のような'''攻撃'''を目的とした射撃管制レーダーの場合、地上設置ではアンテナに[[仰角]]を必ず取る事になり、大地がバックローブを吸収拡散する。また、航空機での固定[[航空機銃]]照準レーダーの場合は、バックローブでの誤探知の問題は敵機に真後を取られた状況くらいでしか発生しない為、哨戒レーダーほど問題は大きくならない。この為八木・宇田アンテナを導入しやすかったのである。
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日本軍での八木・宇田アンテナの導入の遅れで一番問題となったのは、反射器の設計技術であった。日本軍はシンガポール戦後、直ちに八木アンテナの研究開発に取り組んだものの、ただ闇雲に素子を並べてもバックローブの問題が解決できないので、妥協案として八木・宇田アンテナの後方に金網を設置して反射器の代わりとした。しかし、これでも送受信機の利得や出力に見合った性能が得られなかったので、鹵獲した英米の対空射撃レーダーのコピー品にはオリジナルからの相当な性能の低下が生じた。金網反射器は艦船に搭載するものの場合、風圧([[艦砲射撃]]の爆圧も含まれる)で破損や変形をおこしやすい問題もあり、アンテナ自体の小型化が進まない要因ともなった<ref>[http://home.e01.itscom.net/ikasas/radar/jprdf06.htm 英米のレーダーをコピー - 太平洋戦争 レーダー開発史]</ref><ref>[http://www1.odn.ne.jp/~yaswara/antennan/turedure.html#kanaami 金網反射器 - 海軍レーダー徒然草- 暗天南]</ref>。
[[ファイル:NakajimaJ1N1-S.jpg|thumb|200px|機首に八木・宇田アンテナを装備しレーダーを搭載した[[月光 (航空機)|月光]]一一型]]
また、[[第二次世界大戦]]後期には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側、とりわけイギリスでは八木・宇田アンテナは万能ではなく、用途によっては軍事利用には不向きである事にも気付いていた。八木・宇田アンテナは[[航空機]]に搭載する場合、素子が突起物となって[[空気抵抗]]が増大し、機体性能の低下を招く欠点があり、機体の最高速度が増せば増すほどそれに見合った大型で頑丈な八木・宇田アンテナが必要になる矛盾が生じる為、イギリスではより小型の[[パラボラアンテナ]]の開発に注力、大戦後期には空気抵抗の低下を最小限に抑える[[レドーム]]の技術開発にも成功し、[[重爆撃機]]による夜間の[[戦略爆撃]]に大きな成果を挙げている。一方、[[マグネトロン]]によるマイクロ波レーダーの技術が乏しかった[[枢軸国]]側の[[夜間戦闘機]]は、八木・宇田アンテナを機首に搭載して運動性能が低下した[[夜間戦闘機]]で、連合国機とは不利な戦闘を強いられる事となった。
 
[[File:VHF Radio Telephone Monument Tobishima.jpg|thumb|飛島にある超短波実用無線電話開通記念碑]]
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八木は1926年2月に、このアンテナで無線のエネルギー伝達を試みた。八木と宇田は、波のプロジェクター指向性アンテナ({{lang-en|Wave Projector Directional Antenna}})に関する最初の報告書を公表した。八木はなんとか概念の証拠を実証したが、技術的問題として従来の技術よりもよりわずらわしいことが判明した。しかし、1954年には英文著書 {{lang|en| '''''YAGI-UDA ANTENNA'''''}}<ref>S. Uda and Y. Mushiake[http://www.sm.rim.or.jp/~ymushiak/sub.yubook.htm ''YAGI-UDA ANTENNA'' 183頁, 取扱店, 丸善, 東京. ]</ref>が出版された。
 
この発明は、電気技術史に残るものとして、[[1995年]]に[[IEEEマイルストーン]]に認定された。銘板は東北大学片平キャンパス内に置かれている。「日本でのマイルストーン受賞リスト」によると、贈呈式年月と受賞テーマ(カッコ内は対象年・期間)および受賞者が、次のように示されている。
• 1995年6月 指向性短波長アンテナ<八木・宇田アンテナ>(1924年)- 東北大学
ここで、(1924年)と記されているのは、宇田が講師に就任し、多数の導体棒配列で構成した短波長アンテナの放射指向性測定によって、「短波長ビーム」を発生させる配列方法の研究を開始し、新しい成果を得た年である。
 
[[2016年]]([[平成]]28年)[[9月6日]]に[[国立科学博物館]]の[[重要科学技術史資料]](通称:未来技術遺産)の第00210号として、世界最初の超短波アンテナであることを評価され、登録された<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/material/index.html 重要科学技術史資料一覧]</ref>。
 
=== 「地デジ化」によるVHFテレビ用アンテナ消滅 ===