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== 運動概要 ==
無癩県運動は『日本らい史』など権威ある本が<ref>『日本らい史』[[山本俊一]] 東京大学出版会 1993</ref><ref>熊本地方裁判所判決文 2001</ref><ref>ハンセン病問題に関する検証会議 2005</ref>、その発端を[[1929年]]([[昭和]]4年)としている。これは[[光田健輔]]の『回春病室』の記述に基づいたものであるが、佐藤労は愛知県の方面委員が愛生園を訪問した[[1934年]](昭和9年)を根拠に[[1934年]]に始まったとしている<ref>ハンセン病市民学会年報 2007 p44-53</ref>。ほかに山口県議会の議事録によると、[[1930年]](昭和5年)に開始されたという説がある<ref>杉山博昭 『山口県におけるハンセン病対策の展開 -無らい県運動期を中心に-』山口県史研究 第14号 2006 p46</ref>。ほかに、強制収容の嵐という題で[[1930年]](昭和5年)から在宅患者強制収容の暗黒時代が始まるとした本もある。この本によると、[[内務省 (日本)|内務省]]が始めたとある<ref>『差別者のボクに捧げる』 三宅一志 晩聲社 1978</ref>。
 
[[鳥取県]]では、[[鳥取県知事]]を会長とする鳥取県癩予防協会を結成し、県民から寄付を集めて長島愛生園に県出身者用の寮を建設し、患者を送致した<ref>『鳥取県の無らい県運動』 鳥取県史ブックレット2 2008 鳥取市</ref>この運動は全国に拡大し、[[福岡県]]・[[山口県]]・[[宮城県]]・[[富山県]]・[[岡山県]]・[[埼玉県]]・[[愛知県]]・[[三重県]]・[[沖縄県]]などの県が積極的だった。主導者は[[光田健輔]]である。
 
佐藤労は、[[1931年]]([[昭和]]6年)の[[癩予防法]]の施行後に、[[光田健輔]]が、十坪住宅運動と共に発案し、政府が推進し、各県が同調して広まったとしている。運動の高まりにつれ、各種公共団体、学校、宗教団体なども協力した<ref>『ハンセン病無らい県運動の発端について』 佐藤労 ハンセン病市民学会 年報2007, 44-53,</ref>。この運動は[[第二次大戦]]後にも持続し、熊本県では戦後の方が盛んであった。熊本の無癩県運動については、[[2011年]]([[平成]]23年)現在、[[熊本県]]により検討が重ねられている。