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{{基礎情報 武士
'''結城 広綱'''(ゆうき ひろつな、[[安貞]]元年([[1227年]])? - [[弘安]]元年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1278年]][[7月14日]])?)は、[[鎌倉時代]]中期の人物。[[結城氏]]の第3代当主。父は2代当主・[[結城朝広]](広綱は長男)。弟に[[結城祐広]]([[白河結城氏]]初代)。子に4代当主[[結城時広]]、[[結城宗重]]、[[結城重広]]。上野介、三郎兵衛尉、のち七郎、中務大輔。
| 氏名 = 結城広綱
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[鎌倉時代]]中期
| 生誕 = [[安貞]]元年([[1227年]])?
| 死没 = [[弘安]]元年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1278年]][[7月14日]])?
| 改名 =
| 別名 = 七郎
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 新福寺殿教阿弥陀仏
| 霊名 =
| 墓所 = [[茨城県]][[結城市]]浦町の称名寺
| 官位 = [[上野国#国司|上野介]]、[[兵衛府|三郎兵衛尉]]、[[中務省|中務大輔]]
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[結城氏]]
| 父母 = 父:[[結城朝広]]
| 兄弟 = [[関朝泰]]、'''広綱'''、[[結城祐広|祐広]]、<br/>[[金山時祐|金山時祐(時広)]]、[[平山信朝]]、<br/>[[益戸義広|益戸(小川)義広]]
| 妻 =
| 子 = '''[[結城時広|時広]]'''、[[大内宗重]]、[[小萱重広]]、[[金山時綱]]、[[小田盛広]]
| 特記事項 =
}}
 
'''結城 広綱'''(ゆうき ひろつな)は、[[鎌倉時代]]中期の[[武士]]・[[御家人]]。[[結城氏|下総結城氏]]3代当主。
[[吾妻鏡]]によれば[[建長]]年間の記録に名が見え、別の記録においては[[文永]]年間に[[足利家氏]]([[斯波氏]]の祖)らとともに廷尉を務めたとされるが、詳細は不明である。広綱と子の時広、孫の[[結城貞広]]の時代の下総結城氏の活動の記録は乏しい。
 
== 略歴 ==
墓所は父の朝広や祖父[[結城朝光]]、子の時広と同じ[[称名寺]](結城称名寺)である。また、[[新福寺]]の寺伝によれば、文永年間に長楽寺(新福寺の前名)の開基となり、念仏宗に帰依し、没したとされている。法名は新福寺殿教阿弥陀仏と伝わる。
2代当主・[[結城朝広]]の子として誕生。
 
[[吾妻鏡]]によれば[[建長]]年間の記録に名が見え、別の記録においては[[文永]]年間に[[足利家斯波氏]]の祖・[[斯波足利家氏]]の祖)らとともに廷尉を務めたとされるが、詳細は不明である。広綱と子・[[結城時広|時広]]、孫[[結城貞広|貞広]]の時代の下総結城氏の活動の記録は乏しい。
 
墓所は父朝広や祖父[[結城朝光]]、子時広と同じ[[称名寺]](結城称名寺)である。また、[[新福寺]]の寺伝によれば、文永年間に長楽寺(新福寺の前名)の開基となり、念仏宗に帰依し、没したとされている。法名は新福寺殿教阿弥陀仏と伝わる。
 
{{下総結城氏当主||? - ?}}
 
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{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:ゆうき ひろつな}}
[[Category:鎌倉幕府御家人]]
[[category:結城氏|ひろつな]]
[[Category:鎌倉幕府御家人]]
[[Category:下総国の人物]]
[[Category:1227年生]]