削除された内容 追加された内容
33行目:
小学校入学後に終戦を迎えたが戦時中はスポーツ自体を行う余裕が社会に無かったため、幼少期に経験したスポーツと言えばかけっこ程度であった。中学校時代に野球が流行っており、松崎もその中で育った。中学時代、ランニングは苦手ではなかったが、徒競走では学校でも真ん中程度の順位であった<ref name="takasagoo5659"/>。実父が若松部屋の[[行司]]・[[三太夫 (行司)|7代式守錦太夫(のち9代式守与太夫]])であった事が縁で、[[1952年]](昭和27年)1月に若松部屋へ入門し、同年1月場所で[[初土俵]]を踏んだ。当初の[[四股名]]は、「小櫻」。「房錦」の四股名は出身地の千葉県(南部の旧称・[[安房国|安房]])に因んだものだが、最初は「総錦」と名乗るはずが、間違えて「房錦」と書かれた。後に訂正したが成績が振るわなかったため、「房錦」に戻した。
 
その間、師匠の交代(元[[小結]][[射水川健太郎|射水川]](若松)→元前頭3・[[鯱ノ里一郎|鯱ノ里]](西岩、1956年(昭和31年)より若松に名跡変更))に伴い、所属部屋の名が「西岩部屋」となっていた時期があった。
 
[[1957年]](昭和32年)5月場所、21歳で新[[入幕]]。この場所では大活躍し、14日目まで11勝3敗と絶好調で[[千秋楽]]を迎え、対戦相手はただ1人12勝2敗の新[[小結]]・[[安念山治|安念山]]、勝てば優勝決定戦に持ち込めたが流石に負けた。それでも新入幕で優勝を争った事が評価され、[[三賞|敢闘賞]]を受賞した。次の9月場所では7勝8敗と負け越したが、[[鏡里喜代治|鏡里]]から初の[[金星 (相撲)|金星]]を挙げている。
 
[[1958年]](昭和33年)9月場所と[[1959年]](昭和34年)1月場所では負け越したものの、両場所とも[[千代の山雅信|千代の山]]から金星を獲得。因みに後者のそれは、千代の山を引退に追い込む、房錦自身にとって忘れられない勝利となった。
43行目:
当時土俵を支配した横綱・[[栃錦清隆|栃錦]]には9戦全敗、横綱・[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]には1勝13敗とまるで歯が立たなかったが、若乃花戦での唯一の勝利が相手を腰砕けにさせて吹っ飛ばすという豪快なものでありこれで通じなかったと言われれば不思議に思うかもしれない。また[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[柏戸剛|柏戸]](いずれも、のち横綱)との対戦成績はともに5勝6敗とほぼ互角で撫で斬りも2回、関脇以下でこの両者をここまで苦しめた力士は他に居らず、「柏鵬キラー」と呼ばれた。色黒で固太りの体型で体を丸め突進して押す相撲ぶりから、「褐色の弾丸」の異名を取った。この頃、同部屋の[[岩風角太郎|岩風]](最高位・関脇)とともに、幕内上位を賑わせた。1961年頃は押しておいてから急に変わることも多かった<ref name="takasagoo5659"/>。
 
その後、膝と腰の故障を悪化させて[[1965年]](昭和40年)9月場所後、新入幕から50場所連続で守った幕内から[[十両]]へ陥落。以降は体力の衰えに伴って、十両でも本来の相撲が取れなくなり、[[1967年]](昭和42年)1月場所を以って現役を引退した。
 
引退後は、[[年寄]]・[[山響]]を襲名。以来、若松部屋付きの親方として後進を指導した。当時の若松親方(元[[前頭]]3・[[鯱ノ里一郎|鯱ノ里]])の娘(松崎友紀子)と結婚して親方の婿養子となっていたため、[[1979年]](昭和54年)8月、師匠の停年退職後に[[若松 (相撲)|若松]]部屋を継承した<ref name="takasagoo34">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p34</ref>。
 
しかし、[[糖尿病]]が悪化した事で相撲協会の職務が困難となり、山響親方(元[[大関]]・[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]](現・[[高砂 (相撲)|高砂]]親方))を年寄・若松の後継者に指名して[[1990年]](平成2年)3月場所限りで廃業<ref>ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p38</ref>。これにより、[[射水川健太郎|射水川]]→鯱ノ里→房錦と3代に亘って養子縁組が続いてきた若松部屋は系統が変わった。
 
なお、師匠としては、1人も関取を育てる事ができなかった。