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'''モルッカ諸島'''(英: Moluccas、蘭: Molukken)または'''マルク諸島'''([[インドネシア語]]: Kepulauan Maluku)は、[[インドネシア共和国]]の[[セラム海]][[バンダ海]]に分布する群島。[[スラウェシ島]]の東、[[ニューギニア島]]の西、[[ティモール島]]の北に位置する。歴史的に「'''香料諸島'''」として特に西洋人や中国人の間で有名であった。
 
山がちであり、いくつかの[[活火山]]がある。気候は湿潤。農業は小規模で行われているが、米、[[サゴヤシ]]の他、[[ナツメグ]]、[[クローブ]]などの[[香辛料]]など価値の高い農産物を生産している。
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== 歴史 ==
=== 香辛料諸島 ===
バンダ海の人々は[[古代ローマ帝国]]の時代から中国などアジア諸国と[[香辛料貿易]]をしていた。[[イスラム教]]が勢力を強めると、イスラム商人による貿易が支配的となった。古代のアラブの典拠で、この諸島の位置は、Jaba島([[ジャワ島]]と予想される)から東へ15日間の航海と記述されている。しかし、イスラム商人の存在は、中国のこの海域の支配が弱まった13世紀後半に確かなものとなった。アラブ商人がイスラム教だけでなく[[スルタン]]制を新しい社会組織として、重要な島の富裕層に採り入れさせた。そして、外来者との取引が効果的であることを見せた。
 
[[ヴェネツィア]]は、モンゴルやトルコによって伝統的な東西陸路が破壊された後の西暦1200年から1500年の間、[[アレクサンドリア]]などの港への[[地中海]]航路を支配し、イスラム商人と取引することによって、ヨーロッパにおける香辛料貿易を独占した。ヴェネツィアによる高収益取引の独占支配に変わる手段を発見するための報奨金が、降って湧いたヨーロッパの大航海時代の最も重要な要因であった。[[ポルトガル]]は、アフリカ最南端を周る航路開拓をいち早く始め、その途上の拠点地を確保していった。航海に利用できる南向きの海流を探している時に、ブラジルを発見した。ポルトガルの偶然の成功と、帝国の確立は、スペイン、フランス、イギリス、オランダなどの他のヨーロッパ諸国に、ポルトガルの地位に挑戦し打ち勝つための海事力を起こさせることになった。([[ポルトガル海上帝国]]参照)
 
香辛料がヨーロッパにおいて高い価値を持ち、大きな収入を上げられるため、オランダ、イギリスはすぐにこの地域において独占権を得ようと争いに加わった。小さな諸島を支配するための争いは、オランダが、代替地がいろいろある中で[[マンハッタン島]]をイギリスに譲渡してまで、この小さな島を支配し、[[バンダ諸島]]の支配権を確立するほど熾烈を極めた。バンダ諸島の原住民は、オランダによってほとんどの住民が虐殺されたり奴隷にされるという戦いによってほとんどすべてのものを失った。香辛料戦争の間に6000人以上が殺された。
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[[オランダ東インド会社]]は、その手法において以下の3つの障害を有していた。ポルトガル人が原住民を支配していた。原住民はイングランドとの不法取引が、ヨーロッパ人の独占に対する唯一の対抗手段であった。17世紀の他の事件の間、[[バンダ諸島]]の住民はイングランドとの独立貿易を試みた。オランダ東インド会社の反応は、バンダ諸島の原住民を虐殺し、その生き残りは他の島へ移住させ、奴隷の労働をさせるというものであった。
 
他の種族もバンダ諸島に居住していたが、モルッカ諸島は他国の支配下にあり、不安定であった。ポルトガルが[[マカッサル]]に新しい貿易拠点を築いた後でさえ、1636,1646年と原住民の反乱は起きた。東インド会社の支配により、北部モルッカ諸島は、[[テルナテ島|テルナーテ島]]に居住するオランダ住民によって、南部は[[アンボイナ]](アンボン)人によって統治された。
 
第二次世界大戦中の日本占領下、モルッカの住民は山地に流れ込んだが、南モルッカ旅団として知られる抵抗運動を起こした。戦後、島の政治指導者達は、独立に関してオランダと協議して、これに成功した。インドネシア人の要求もあり、1949年にRound Table Conference Agreementsによりモルッカ諸島に新しいインドネシアに加わる否かの選択権を与えるとともに、インドネシアに移譲された。この同意により、モルッカ人は最終的な統治権を決定する権利を有すると認められた。