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超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
→‎治世: 段部や宇文部も鮮卑族系なので、意味が通りやすいように修正
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[[西晋]]の混乱に乗じ、積極的に中国領への侵攻を進めた。[[302年]]9月には三万の軍隊を率いて[[玄菟郡]]に侵入し、捕虜八千人を得て平壌<ref>この平壌が[[東川王]]の築城した[[集安市|集安]]付近の平壌城を指すのか、[[楽浪郡]]のあった[[平壌|ピョンヤン]]地方を指すのかは明らかではない。あわせて[[東川王#治世]]を参照。</ref>に移住させた。[[311年]]8月、[[遼東]]郡の西安平を襲撃して奪い取り、[[313年]]10月、[[楽浪郡]]に侵入してこれを滅ぼし、翌[[314年]]には[[帯方郡]]を滅ぼした。さらに[[315年]]2月にも玄菟城を攻め、殺したり捕虜にしたりした人数が甚だ多かったという。
 
中国東北部の覇権が[[鮮卑]][[慕容部]]の[[慕容カイ|慕容廆]]に移った後、西晋の[[平州]][[刺史]][[崔毖]]の誘いで高句麗は[[段部]]・[[宇文部]]とともに慕容廆を攻めるようになるが、下すことはできなかった。そればかりでなく宇文部の将が鮮卑慕容部に大敗すると、[[319年]]12月には崔毖が高句麗に亡命してくることとなった。その後、遼東の地は慕容廆の子の[[慕容仁]]が鎮守し、鮮卑[[慕容部]]と高句麗との対立は深まった。河城にあった高句麗の将軍如孥に対し慕容廆は[[張統]]を派遣して急襲し、如孥をはじめとする捕虜千余人を得て棘城([[遼寧省]][[義県]]の北西)に凱旋している。この後も美川王は度々兵を派遣して遼東を襲撃したが、慕容仁・慕容翰に阻まれている。いったんは和親が成立して慕容仁らは退却したが、[[320年]]にも遼東に侵略を試み、慕容仁に撃ち破られている。美川王は[[330年]]に[[後趙]]の[[石勒]]のもとに朝貢しており、鮮卑慕容部の勢力拡大の抑制を図った。この時期、中国は[[五胡十六国時代]]に突入しており、周辺諸民族がそれぞれの国制を整備して多様な外交を展開していくなかで、高句麗もまた各種の勢力と対立・依存の関係を結び、東北方面の強国として存在することとなった。
 
在位32年にして331年2月に死去し、美川の原に埋葬されて美川王と[[諡]]された。のち、[[故国原王]]の12年([[342年]])に[[前燕]]の[[慕容コウ|{{lang|zh|慕容皝}}]]に侵攻された際に、王陵があばかれて屍を持ち去られている。