「ゼーロウ高地の戦い」の版間の差分

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Isaev, Aleksey (2007)より引用
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→‎前夜: Isaev 2007, pp. 293–295より引用
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第1白ロシア方面軍には、11個[[軍]]配下の77個狙撃兵[[師団]]、7個の装甲[[軍団]]及び機械化軍団、8個[[砲兵]][[師団]]、その他、砲兵とカチューシャが混成された部隊が所属しており、3,155両の戦車、[[自走砲]]、16,934門の砲を所有しており<ref name="Ziemke, page 76">Ziemke, p 76.</ref>その11個軍のうち8個軍がオーデル川沿いに配置されていた。北方では、第61軍がシュヴェートからフィノウ運河へ分かれる箇所を占領しており、運河から[[キュストリン]]のソ連橋頭堡に第1ポーランド軍、第47軍、第3突撃軍、第5突撃軍、第8親衛軍が集中配置され、第69軍、第33軍は{{仮リンク|グーベン|de|Guben}}南の川を押さえた。また、第5突撃軍と第8親衛軍はベルリンへ向かう[[アウトバーン]]にあるドイツ軍のもっとも堅固な防御地点に配置された。一方、第2親衛装甲軍と第3軍及び第1親衛装甲軍は予備とされた。<ref name="WarMaps">{{Cite book|last=Goodenough|first=Simon|title=War Maps|year=1982|publisher=Macdonald|isbn=0-312-85584-2}} page 116</ref>、
 
ドイツ第9軍はゼーロウ高地に位地するフィノウ運河付近からグーベンに向けて布陣しており、512両の戦車、344 2625門の砲、300 - 400695門の対空砲を所有し、総勢14個師団の戦力であった<ref name="Ziemke, page 76" />。また、さらに南側では第4装甲軍が布陣し、第1ウクライナ方面軍と対峙していた。
 
3月20日、ヴァイクセル軍集団の司令官が[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]からゴッドハルト・ハインリツィに交代した。ハインリツィはドイツ軍でも卓抜した戦術家の一人であった。ハインリツィはソ連赤軍の攻勢が行われる箇所を正確に予想しており、オーデル川と東西に伸びるアウトバーンが危険と判断していたが、そこはゼーロウ高地のことであった。ハインリツィは軽い小競り合いで川岸を防御することにし、その代わりに、オーデル川より48メーター高い地点で、なおかつ川を横切るアウトバーンが見渡せる地点の防御を強化した。ハインリツィはその地点の防御を強化するために、他の防御地点から兵を移動させた。そしてさらには、オーデル川が春の雪解けで増水し始めたので、上流の貯水池からの水量を調整し、平地を沼地に様相を変えさせた。こうして、ハインリツィはベルリンとの間に3つの防衛ラインを築いた。最終防衛ラインはヴォータンライン(Wotan Line)(最前線の後方、10 - 15マイル地点)であった。これらの防衛ラインは対戦車壕、[[対戦車砲]]陣地、[[塹壕]]と掩蔽壕が連携するように形成されていた<ref name="Ziemke, page 76" />。<ref>Zuljan, Ralph, [http://www.onwar.com/articles/9905.htm Battle for the Seelow Heights - Part II] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110525014346/http://www.onwar.com/articles/9905.htm |date=2011年5月25日 }} Originally published in "World War II" at Suite101.com on May 1, 1999. Revised edition published in "Articles On War" at [http://www.onwar.com/faq.htm OnWar.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110514001340/http://www.onwar.com/faq.htm |date=2011年5月14日 }} on July 1, [[2003年]].</ref>